1974年(昭和49年)の出来事について
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週刊小説 1974年3月8日号より
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世に”高石かつ枝”がいるかぎり
高石かつ枝といえば、あの有名な愛染かつらのヒロインです。その昔に流行った歌は私も歌った事があります。「やまもあらしもふみこえて〜」ということになるのですが、その昼の帯ドラマが製作されるということです。
フジテレビがこの夏から放送する昼メロ「愛染かつら」のヒロイン高石かつ枝に新藤恵美が決まった。
”子連れ”の看護婦と青年医師の悲恋をえがいたこの作品、すでに茶の間にはおなじみで「君の名は」と並び称されるメロドラマの古典である。
現在、昼メロ番組をもっているのは日本テレビ、TBS、フジの3局だが、いずれも視聴率は10%以上で「この時間の帯ドラは、夜のゴールデンアワーの当たり番組に匹敵する」ほどの好調ぶり。
電力事情その他の危機により、お色気番組、深夜映画があいついで中止、これら昼メロものも「カットしろ」の声が高かったが
、かんじんの主婦が”よろめき”にピッタリ密着してるとあっては、”どの局も知らん顔”
たとえば、フジテレビが昼メロ開局十周年を記念して調査した”思い出のベスト5”によると、
第1位 愛染かつら(S40年) 第2位 大奥の女たち(S46年)
第3位 男の償い(S40年) 第4位 下町育ち(S40年)
第5位 朱鷺の墓(S48年) となっている。断然トップが「愛染かつら」である。それだけに、フジテレビとしては、この夏から放送する同番組の高石かつ枝えらびには慎重だった。
えらばれた新藤恵美は、この4月3日、長谷川明男と結婚式をあげる。しかし撮影開始は直前の三月末。そのためヨーロッパ新婚旅行は取りやめ・・・彼女は、
・・・・
新藤恵美は、当時非常に綺麗な女優さんでボーリングのドラマ(このころより前だったのか後だったのかはちょっと?ですが)に出ていました。覚えています。
それよりも、石油ショックで、今で言うエコモードに世間が入ってしまって、電力、火力の使用を抑える大目標に一丸となっていたようです。夜も0時を過ぎると、番組が無くなっていたそんな、覚えはあります。
昼メロに関しては、当時学生であったし、全く見た事もないですね。もちろん録画も出来ませんでした。
週刊朝日 1974年3月15日号より
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映画界復帰第一号は「青春の門」か
亭主と恩師の間で悩む人妻・小百合のオトナへの脱皮
なんだかんだといわれながらも、やっぱり吉永小百合。岡田太郎氏と結婚以来、家庭にひきこもっていたが、近く本格的にカムバックすることになった。
太郎さんの世話にあきたからだとか、太郎さんの月給だけではやりくりが大変なためなど、まあ、いろいろうるさいこと!
私は、当時吉永小百合の映画は全く見ていません。歌手としての吉永小百合はそれこそ「いつでも夢を」や「そこは青い空だった」などの青春歌謡は非常に好きでした。
芸能界復帰第一作は六月、TBSで放送のドラマ「下町の女」が決まっているが、当人の希望は映画に主演することだという。
映画界の小百合かつぎ出し作戦は、昨年暮れあたりから東映を除く、東宝、松竹、日活の三社で争われ、目下のところ東宝がほぼかつぎ出しに成功のメドをつけた。
もともと小百合自身は「津軽じょんがら節」の松竹・斎藤耕一監督に大変なご執心。「復帰第一作は彼で」と希望したが、斎藤監督は勝プロでやくざ映画を準備中。どうやら小百合の”片思い”に終わりそうだ。
”失意”の彼女に、かつての日活の恩師、浦山桐郎監督が迫った。「キューポラのある街」で小百合をスターダムにのせた実績を持つだけに、
「キューポラの小百合をひと皮むいて、おとなの女優に脱皮させられるのはオレしかいない」
と、強引に口説き続けたらしい。
清純派の代表といえば”小百合”さんだったのですが、その方が清純とは対極にある結婚をして「えーっ」となりました。やっぱり女性であった、これでもう女優はやめるのかなとか思っていました。
作品は五木寛之の原作を映画化する「青春の門」(東宝)。原作の”筑豊編”が軸で、小百合は十八歳から三十三歳までのヒロイン、タエを演じる企画。タエは、ヤマの男伊吹重蔵の後妻になり、義理の息子との愛情が中心になる。
復帰第一作なら興行的には間違いない。東宝側は「なんとしても小百合で」の意気込みで、五月中にも撮影を開始したい考えだ。
しかし、かんじんの小百合の返事が煮え切らない。
「斎藤耕一監督以外は、浦山センセイしか私を生かせる監督はいない」
とうれしがらせるかと思うと、
「「青春の門」の台本を読んだ限りでは、私のイメージとかけ離れている。主人も、君のキャラクターに合わないと反対している」
と渋る。
大人への脱皮といえば、もちろん裸、ヌード、これしかありませんと、映画界は考えています。その通りです。いままで裸を撮られなかった女優って考えられないです。
関係者のみかたによると、問題は台本にある”ポルノ的シーン”。息子の信介に乳をふくませたり、重蔵との夫婦愛の回想シーンがあり、このあたりに抵抗しているのではないか、といわれている。
人妻になっても、まだ”清純派”の看板を捨てきれない小百合。浦山恩師のもとで、うまく”脱皮”できますかな。(記事終了)
ほんとうについ最近(2012年11月頃)になって、CSの日本映画チャンネルで吉永小百合特集があり、BDに録画していますが、それでも挿入歌の懐かしさが先になります。もちろんサユリストでなくてサオリストですから・・・。
このごろでは、”アクオスの「おねえさん」”と思っていましたけれど、彼女の映画に限らず、60年代70年代の映画の中でのロケでは、懐かしい風景満載で、昔はよかったと懐古趣味に浸っております。
2012-11-27記
平凡パンチ 1974年3月18日号より
多岐川裕美が裸をやめた(?)事情
伝説の「聖獣学園」を私は見たわけではありません。今ならDVDで購入出来るのですが、それもまだ実現していません。当時美人ヌード女優がデビューとかで男性週刊誌をにぎわせたのですがこういういきさつだったようです。
多岐川裕美が並みの美人ではない証拠に、東映ポルノにスカウトした鈴木則文監督と、高村賢治プロデューサーの意気込みと気の使いようは、異常と思えるほどのものすごさだった。
「聖獣学園」の主役探しに二人は昨年の八月から四ヶ月間も、毎日のように、新宿、銀座、池袋の街や喫茶店で声をかけつづけ、やっとのことで新宿の喫茶店で友人と待ち合わせしている多岐川を見つけ、強引にクドキ落とした。とにかく岡田茂社長までが、
「あの子はイケる。佐久間良子二世に育てろ」
と気に入ったほどだから、カメラ・テストも省略して「聖獣学園」のスタジオに直行、グズグズいう間もあたえず、電光石火の早わざで、彼女をセミ・ヌードにひんむいてしまった。
ところが「聖獣学園」いざ封切ってみると、興業成績はサッパリ。片山企画製作部長によると、
「成人映画は十八歳未満のヤングが入場できないし、ポルノ映画自体、乱作しすぎて質が落ちてきた観もあるし」
ということらしい。しかし、多岐川個人の株はあがるいっぽうで、予定されていた「聖獣学園」の続編が中止になると、さっさとテレビから声がかかったのだ。
こうして、女優多岐川裕美は作られていったわけですが、なんとも彼女の素敵な”バディ”はこの一作で封印というわけになってしまったのですね。週刊誌をにぎわせていた彼女も普通の女の人に戻ってしまった。残念でした。
女性セブン 1974年7月3日号より
南沙織(19)が高校生活に別れを告げた日・妹と一緒に卒業しました
南沙織がアメリカンスクールに行っていたことは当時知っていましたが、卒業時の写真を見るのは初めてでした。当時の週刊誌には載っていたことかもしれませんが(女性誌や週刊明星、平凡等)妹と同じく卒業ということはこの女性セブンの記事を見て初めて知りました。
先生から”よく頑張ったね。といわれてニッコリ。転校や仕事のため遅れてしまったが、化学は1番、欠席20日間という見事な成績で、妹(ロージェーさん、17歳、南沙織の右)と一緒の卒業式。「9月から大学(上智大学)と料理学校へいくの。花嫁修業もしなくっちゃ」(6月14日、東京・調布のアメリカンスクールで)
(女性セブン・1974年7月3日号グラビア記事より)
料理学校にも行ったのですね。知りませんでした。
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(青い文字は、雑誌本文記事です)