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1961年(昭和36年)の出来事について

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サンデー毎日 1961年4月16日号よりnew
「あの波の果てまで」 スターづくりの舞台裏
岩下志麻は売り出し中

松竹の岩下志麻が、メロドラマのヒロイン、岸恵子の再来というキャッチ・フレーズで、大大的に売り出されることになった。彼女の主演映画「あの波の果てまで」が来たる十六日に封切られるが、岩下売り出しの波も、いまが最高潮、スターづくりの一つの典型がそこにある。
以下は、岩下志麻売り出しの舞台裏、スターづくりの過程を、ある宣伝部員のメモ帳からのぞいてみよう。
現在では大女優といわれるかたでも、売り出しの頃には、非常な苦労がそのスタッフにはあったようです。そしてその苦労は今とまったく変わらなかったようです。
2月10日 部長から岩下志麻ならびに、「あの波の果てまで」の宣伝担当をいいつかった。部長いわく「この作品は、会社が力をいれている作品だから、キミしっかりたのむョ」ボクはすでに近く封切りの作品二本の宣伝を担当していた。余力があるだろうか、一日考えさせてもらうことにした。おりしも、「甘い夜の果て」「非常の男」の二本立て興行が振るわず、宣伝部の空気は晴れやかでなかった。ボクも憂うつだった。
2月12日 頼まれたらイヤといえぬタチなので、部長命令を受けた。早速「あの波」宣伝作戦会議を開いた。ボクを含めて十三人の「あの波」係が集まった。部長はいつになく興奮の面持ちで「この映画は松竹を波にのせるかどうかのポイントになる。また岩下はこの一本で大スターにしなければならぬ。」とゲキをとばした。
2月14日 手はじめに、岩下を連れて娯楽雑誌H誌とM誌の編集部にあいさつに行く。娯楽ジャーナリストには、ごたくを並べるより実物を見せたほうが効き目がある。その足で浅草のプロマイド屋Mへ行く。ここのオヤジさんは名物男でプロマイド一つで何千人というスターをつくってきた人だ。岩下をひと目みるなり「あなたはあごが細くて、エリアシが美しい、これが大女優の条件だ」とズバリいった。スターはつくられるといっても、素質がなくては、売り出しても客はつかぬ。幸い岩下にはよい素質がある。百万の見方を得た思いだった。ただちに十種のプロマイド撮影を行った。
ここで雑誌のHとMは「平凡」と「明星」しかありません。何故にイニシャルトークかと思います。当時は、現在のように芸能ニュースの合間に一般ニュースをいれるというテレビ番組はなく、雑誌か映画で見るかテレビの芸能ニュースしか一般大衆には芸能人を知るという機会はなかったと思います。特にHとMは月刊及び週刊とありましたからそれはそれは売り込みが激しくなったのだろうと思います。
そしてプロマイド屋Mは、当時誰でも知っているし雑誌の広告にも、今で言う俳優女優のサムネイルが一杯のマルベル堂だと思います。私も学生時代北海道からの帰り東京に寄ってマルベル堂に行ったことがあります。
初々しい千秋ハット
2月16日
 トップ・スチールの撮影を逗子海岸で行う。ロケ・バスに二十六人のマスコミ関係者をのせて出発。岩下一人のスチール撮影に二十六人の取材班、これは大成功の部に属する。
2月19日 「あの波」クランク・イン。メロドラマに必要なものはファッション、ムード、キャスト、ドラマ、略してF・M・C・Dである----と宣伝会議での意見一致。ではどんなF・M......をもちこむか。結局「君の名は」のときの経験をリバイバルさせることになった。「君の名は」の真知子巻きは、大船撮影所の先輩がスチール用のアクセサリーに・・・・と銀座で一枚の白いストールを買い(もちろん自腹で)それを使ったことからはじまった。その故事にならおう。ことしは帽子が大はやりだ。それに「あの波」には旅行場面が多い。若い女性も旅行好きだ、帽子とスーツ・ケース、これにファッション・ポイントをおこう。本社流行研究所のW嬢と相談、自分であめる手芸風帽子、千秋ハットの構想を得た。うまい。すべり出しは好調。
「千秋ハット」?は全く知りません。「真知子巻き」は見てはいないけれど、なんとなく知っていました。”帽子”のほうは、流行らなかったのでしょう。
・・・・・中略・・・・・
恋人の五つの魅力
2月25日
 最近は映画をつくる場合、バックや小道具に使う商品をメーカーとタイアップして使う手がはやっている。これは制作費の合理化と密接な関係がある。「あの波」でも可能な限りのタイアップを考えねばならぬ。岩下がたまたま着てきたカスリの着ものが東邦レーヨンの「アロンがすり」だったので、すぐタイアップを申し込む。劇の一シーンにその着ものを登場させるわけだ。けいさい料?を東邦がもつ仕組。テレビで「あの波」を放送してたスポンサー武田薬品とは二百万円程度のタイアップができた。千秋の父の病床に、アリナミンを登場させることなどで----。
3月3日 心理学の書物を熟読する。宣伝をもっと効果あらしめるために、理にかなった方法をとらねばならぬ。ボクの得た結論はスターの見方は、戦後急速にアイドライゼーションからアイデンティフィケーション(自己同一視)に変わってきている。したがって、岩下を売る場合にも”あなたの心からのお友だち”身近な存在として売ることが必要だ。もちろん男性向きには”あなたの恋人”とする。
・・・・中略・・・・
タイアップもこの頃からあったのですね。当時まだ映画が主流だったころですから、主演格の俳優や女優が使っているものというと、宣伝効果抜群だったのでしょう。
そしてその売り込みというのはAKBの売り込みと変わりませんね。裸近い格好をしないくらいでしょうか。まさか岩下志麻がビキニになってはいないと思います・・・。AKBと変わらないというよりも、AKB48等が昔からの売り込みを踏襲しているわけでしょう。
キャッチ・フレーズ
3月5日
 たたかいはヤマ場を迎えた。これからの仕事は岩下志麻の魅力から宣伝うら話まで一切合さいの話題を、マスコミにのせることだ。娯楽週刊誌、女性週刊誌が最大目標、それに月刊婦人雑誌、歌う雑誌まで範囲は広い。グラビア、表紙、特集記事、ゴシップ、材料を種わけして売り込む。ところがうまいぐあいに手ごたえがある。
3月10日 「君の名」のときは”忘却とは忘れ去ることなり”という名キャッチ・フレーズがあった。心理学の本によると、リズム感のある言葉は脳の第二皮まで浸透し、忘れられないものとなる----という。作者の大林清氏に第二皮にしみとおるようなキャッチ・フレーズ、すなわちじゅ文を頼む。
大大的なマスコミ攻勢に打って出るわけですが、現在のように各テレビ局が芸能ニュース垂れ流し状態ではなかったのですから、難しい宣伝であったのだろうと思います。それと、反応を見るのが、やはり現在の即効見ることが出来るというようにはいかなかったでしょう。
まあ、今でも宣伝しまくっても売れない方は売れないですからねぇ。
しめて三千万円?!
・・・・中略・・・・
3月13日 ことしの春卒業する都内の女子高校生の名簿集めをはじめる。ダイレクト・メールをおくりとどけるためだ。
3月22日 大林氏のキャッチフレーズができる。
どんなキャッチフレーズだったのでしょうか?
・・・・中略・・・・
4月1日 特別宣伝対策本部発足、いよいよ六日に「あの波」クランクアップ。館主決起大会、岩下の試写会あいさつまわりが残されている。この宣伝費用しめて約三千万円。映画が一本つくれるだけの巨費だ。宣伝マン生活十年、こんどほど、大がかりな宣伝は記憶にない。(記事終了)
三千万円といえば今なら億単位のお金です。岩下志麻の期待されようがどれだけであったかというのがよくわかります。
岩下志麻といえば私は、「紀ノ川」での岩下志麻を思い出します。この映画では紀州弁を本当に流暢に話していたのに、「極妻」のしゃべりでは何故にあれまでひどくなったのかと思います。最近になって象印のコマーシャルにでていましたが、やっぱり感じいいかたです。
この日付が”4月1日”ですが当時「四月馬鹿」の風習はほとんど無かったかと思います。
それと、学生の頃(昭和40年代後半)東北旅行したときに夫妻を、お土産やさんだったと思いますが、お見かけしたことがあります。それだけですが・・・・。 2012-10-22記

サンデー毎日1961年4月16日号より サンデー毎日1961年4月16日号より 「千秋ハット」
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(青い文字は、雑誌本文記事です)
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