1963年(昭和38年)の出来事について
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週刊明星 1963年3月10日号より
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錦之助の娘役でデビュー *松岡紀公子
東映の大作”武士道残酷物語”で、中村錦之助、有馬稲子が共演する飯倉修蔵夫妻の娘さとの役に抜擢された。東映自動研修所の1期生。”こんな大作にでられるなんて夢にもおもわなかった。時代劇ははじめてだけどがんばります”と大張きりだ。
錦之助は”今井先生の目にとまっただけに、個性的だし、演技力も確か。将来が楽しみだ”と期待している。昭和22年2月生れ。(川崎市・・・・団地・・・・)
松岡きつこといえば、11PMで知りました。その実女優さんであったわけですが、当時から美人でした。16歳とはいえ、もうすっかり大人ですねぇ。
このころは、記事に現住所が入っているのですが、大らかな時代であったと思います。
2013-09-04記
サンデー毎日 1963年9月15号より
”成功したら死んでもいい” ”マイ・フェア・レディ”に体当たりの江利チエミ
マイフェアレディの映画(オードリー・ヘップバーン主演)は当時は見ていませんが母が見てきたからと言って、豪華な映画のパンフを買ってきたのを覚えています。日本映画ですと、場末の劇場でもらうチラシのようなもの(今はそれが価値あるそうですが)でしたが、オールカラーの固い紙に印刷されたそのパンフに魅せられたものです。しかし、友人は当時からパンフを収集していましたが私は集めなかったです。映画をあまりみなかったということもあるのですが・・・そこで、舞台劇でマイ・フェア・レディを江利チエミが演じると、この号の最後のモノクログラビアで大々的に紹介しています。
ブロードウエーで記録的なロングランを続けている”マイ・フェア・レディ”。この翻訳版がニッポンでも公演される。主役の江利チエミは”私のすべてを打ち込む”というほどの熱の入れようだ。
ケイコ場では、ロウソクの火をビンで代用。ヒギンズ教授の指導でナマリをなおすのにケンメイ。
・・・下品でマユをひそめるような言葉ばっかり大声でわめき立てる(しかし心のきれいな)少女イライザが姿かたち言葉遣いのはしばしまで非の打ちどころない貴婦人に生まれ変わるプロセスを社会風刺たっぷりにまた文明批評的に描きだす、ミュージカル”マイ・フェア・レディ”。
写真は6ページにわたって掲載されています。江利チエミといえば、私は”テネシー・ワルツ”なわけですが、晩年の不幸などもほとんど知らぬ、高倉健の奥さんだったとか・・・3人娘だったとか・・・ここでも私の断片知識が満開です。私は、ブロードウエーよりも、DVDのヘップバーン主演”マイ・フェア・レディ”が一番心にあります。非常に面白いですからね。
週刊ヤングレディ 1963年9月30日号より
ある土曜日の夜 女優たちの5W1H
ある日の夜の出来事をオムニバス風にミニコラムとして書かれています。しかし、そこに出てくる女優はもう、壮観としかいいようがないものです。
■8時0分 TVの前によろめきながら走ってきたのは池内淳子、チャンネル4の巨人中日戦。青山のボーリングセンターでは団令子、ピンを9本倒してゴキゲンならば、それをみた朝丘雪路「よーし」とボールを強く抱く。
■9時0分 高輪のゴルフ場で藤由紀子、クラブを前に「もうちょっとやらせてよ、おねがい」とダダをこねる。大きなアクビをしたのは三田佳子、3本のかけもち出演で一ヶ月5キロも減った体重をベッドにもぐりこませる。
■9時30分 「今日も巨人は負けました!」とため息をついたのは淡島千景と淡路恵子。ハイフェッツを聴いて「やっぱりいいわね」は、鰐淵晴子と父賢舟氏。洗足と朝霞にそれぞれ引っ越したばかりの岩下志麻、倍賞千恵子は、この日とばかりに部屋かたづけに余念なく・・・
■0時0分 騒々しくなたのはボーリング場、無理もない、伊東ゆかり、園まりがTV局からかけつけたため。おや、読書中は星由里子と佐久間良子、一体何を読んでいるんでしょう。
豪華すぎるメンバーです。今も亡くなった方を除けば、大御所ばかりです。このS38年頃は、あまり女優さんは知りませんでした。
週刊アサヒ芸能 1963年12月1日号より
平均25万円!二大事故惨死者の保険金
昭和38年は、東京オリンピックの前の年でした。この年非常に大きな事故が同日に起こっています。炭坑事故と列車事故です。死者は二つで600人以上でした。いずれも悲惨すぎて・・・・いいようがありません。
瞬時に612人の生命を奪った鶴見事故、三池炭坑爆破事故は、二週間たったいまも、血なまぐさい尾をひいて問題を提起している。
なかでも遺族補償、保険金が大きな話題となって残されている。
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国民の四割は保険なし
十一月九日の二大事故は、発生日がたまたま同じだったことから、同一に考えてみると、総額で史上二番目の保険金支払い事故にランクされる。
最高支払いは昭和三十四年九月二十六日の伊勢湾台風で、一億九千万円を突破した。今回の二大事故が一億六千万円。
・・・・
最近の大事故(災害)
伊勢湾台風 昭和34年9月26日
鶴見事故・三池炭坑事故 昭和38年11月9日
全日空機事故 昭和33年8月12日
南海丸沈没 昭和33年1月26日
藤田航空機墜落 昭和38年8月17日
三河島衝突事故 昭和37年5月3日
台風22号 昭和33年9月26日
事故後2週間で、この保険金云々というのはあまりに集計が早すぎるとはおもうので、どこまでが本当のことかわかりません。民間で保険をかけていた方が非常に少なかったということだと思います。
ただ、昭和30年代は本当に大災害、大事故が続けざまに起こっています。今なら、安全や地域の災害防止ということから非常にそういう面は整備されていますが、やはりまだまだ昭和30年代は、戦後すぐという状況であったように思います。
サンデー毎日 1963年12月8日号より
大荒れ紅白歌合戦
歌謡曲全盛時代の昭和30年代後半、カバー曲をうたう日本人ポップス歌手よりも歌謡曲を歌う歌手の方が、ずっと好きでした。夢で逢いましょうやザヒットパレードやホイホイなども見ていたわけですけれどやっぱり歌謡曲でした。この号の記事もS38年末の紅白は誰が選ばれるのかが大問題。その中にすこし新人の記事がありました。
「高校三年生」にレコード大賞か
かわって、ことし、はなばなしく登場するのは「高校三年生」で大当たりをとっている舟木一夫(コロムビア)「出世街道」で、文字どおりその街道をのし歩いている畠山みどり(コロムビア)、それに「島のブルース」であてた三沢あけみ(ビクター)の三人が有力視されている。
舟木一夫は橋幸夫を上まわるゴールデン・ボーイだ。六月に出たデビュー曲の「高校三年生」がひと月で十五万枚現在八十万枚をこえ、百万枚のカベに向かって突進中。ことしのレコード大賞の最有力候補にあげられている。つづいて出した「修学旅行」「学園広場」もりっぱな成績。作詞の丘灯至夫氏は、
「どうしてあんなに爆発しちゃったのか、わかんないよ。舟木クンも”わかりません”って首かしげていたからね。」
といっているが、昨年のレコード大賞をとった「いつでも夢を」をはじめとした一連の清純ムードの流れをうまくキャッチした曲である。
「舟木君が初めて私の家に連れてこられたのは、ことしの初めだったかな。つめえりを着てかしこまっていた。”君いくつ”ってきいたら”高校三年生です”というから”それじゃ高校三年生でいこう”てんで、あの歌ができたんだ。」
という丘氏の話につづいて、作曲の遠藤実氏は、
「高校生がうたっても、学校からしかられないような流行歌は、すくないですからね」
と、大アナをあてたよろこびをかくせない。紅白歌合戦への出場はまず確実。
紅白出場云々は、この短い記事ではあまり関係ありませんが、最後の「高校生がうたっても、学校からしかられないような流行歌」というところは、たしかにそうでした。
私はまだ中学校。流行歌をうたうということは、大げさにいえば遠足のバスの中しか公式には許されなかったころです。学校内で歌うとあまり変な歌(愛だの恋だのやクレージーのもの等)では、不良のレッテルを貼られる時代でした。
この舟木の歌もバス中でしか歌っていなかったかなぁ。そしてちなみにこの年のレコード大賞は「こんにちわ赤ちゃん」でしたが、梓のこの曲はNHKの夢で逢いましょうのヒット曲で紅白もでれるやも知れないと、さらっと流して書いてあるだけです。しかしレコード大賞です。わからないものです。
週刊文春 1963年12月9日号より
ひっかかる外国スター名
統一を申し出たイベット・ミミア
あちらのスターはたいてい自作のPRに熱心だ。ユル・ブリナーなどは、いつのまにか日本にやってきていて、正月映画「太陽の帝王」宣伝のための記者会見を急にひらくなど、なかなかの打ち込みよう。
この会見は、配給会社のユナイトも知らない間におぜん立てするなど、神出鬼没の行動は得意。さらにいつの間にか渋谷パンテオンに現れ、劇場横の「太陽の帝王」予告看板の名前が、題名より小さいと文句をつけたり、きびしいことだ。
もっとも、題名と監督名、俳優名の大きさの割合は出演契約書の条項に明記してあるから指摘されれば改めざるを得ない。日本とちがって、映画界もビジネス上のことは厳重履行が要求されるわけだ。
今でも、外国の映画スターや歌手は、本当に気軽に日本に宣伝に来るようで嬉しいことです。そして、日本を気に入ってくれると(社交辞令ではあると思いますが)なんとなく、”そうそう、そうですよ”とか思ったりしています。
名前の読み方もその一例。清潔な色気で人気のあるイベット・ミミア(Mimieux)は近作「屋根裏のおもちゃ」に主演しているが、日本ではミメオで通っていた。しかし、アメリカ生まれだが、父がフランス人だし、フランス風にミミューというのが正しいとされていた。
ところが、アメリカでも混乱してるとみえて、このほど、ユナイト本社を通して今後アメリカ風のミミアに統一してくれといってきた。
実際に日本へやって来れば正確度が増すのはあたりまえ。ブリナー(Brynner)にしても以前はブリンナーと書かれていた。また十一月十一日から一週間ひらかれた東西演劇シンポジウムに来日したフランス代表の劇作家の名前は、ヨネスコ、イオネスコ、イヨネスコ(Ionesco)と三通りに書かれていたが、ご本人にたしかめてヨネスコい落ち着いた。
「ロリータ」でセンセーションを巻き起こしたスー・リオン(Lyon)は、撮影中の「イグアナの夜」では、すっかり成熟した肢体をみせているが、彼女の場合は、ちょっと変わっている。
デビュー当時、日本のメトロ支社は正確な呼び方が判らなかったが、ライアンではライオンと同じで”妖精ムード”に合わないというので、リオンとしていた。ところが彼女があいさつに来日したとき尋ねてみると「本当はライアンだけど、フランス風のリオンもわるくないわね」ということで、リオンに決まり、ケガの功名。
外国人の名前を正確に発音するのは難しいですが、実際に近いカタカナ表記するのが一番であると思います。しかし、私もユル・ブリンナーと覚えた方です。??今でもブリンナーではないのでしょうか。
マイケルもミッシェルもミカエルも同じだとか英語を習い出して先生が言っていたり、”ギョーテとは俺のことかとゲーテ言い”というふうな川柳もあったりしたように覚えています。そして、私が習った歴史上の人物名もずいぶん変わっているようです。それでも歴史上の人物名は教科書で統一されるのでいいわけです。
小さい頃覚えた”デズニーランド”も今や”ディズニーランド”です。それにしても”ラジオ”は”レイディオ”ならないのは何故?
これと反対のケースが”フランスのキートン”といわれるピエール・エテクス(Etaix)の場合。ことしの四月、フランス映画祭で監督主演作の「女はコワイです」が特別上映されたときは、エテクスと正しい読み方だったのに、このほど封切られてみるとエテに変わっている。
きくところでは、配給会社が”エテ公”の方が売りやすいので変えたという。もし本人がきいたら、ポーカーフェースをゆがめて「なんたるサル知恵」と苦笑するに違いない。(記事終了)
人名とは違うのですが、映画のタイトルや歌のタイトルは、意訳というか変名というか原題からは遠く離れてしまったものもこの頃は多かったように思います。
これは、この日本語訳(意訳)しかないなと思われる曲や映画もありましたけれど、あまりに変えてしまうとどうかと思いました。特に英語を習い出してからは、そんな思いもよくしました。
しかし、フランス映画やイタリア映画もよく上映されていましたのでそちらのタイトルが原題と日本題とどうであったのかは判りません。
2012-12-10記
週刊時事 1963年12月14日号より
俳優の結婚を喜ばぬ映画会社 脚光をあびた岡田の結婚
小学校中学校の頃は、芸能界の出来事に全く無頓着に過ごしていました。せいぜい、テレビ番組を観る事が唯一の関心事であったとおもいます。映画は、まだまだ見に行く事が出来ず、親もそうそう映画好きでなかったので、近くの封切り館でたまに観るのが面白くおもっていました。
最近の映画界をにぎわしたのは、あいつぐスターの結婚だった。スターの結婚話は、昨年の山本富士子と若尾文子で一段落、今年は無風とみられていただけに、香川京子、山崎努の結婚、岡田茉莉子の婚約と、三人が連続して報道され、世間を驚かせた。
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脚光を浴びたのは、なんといっても岡田茉莉子(本名は田中鞠子)と吉田喜重監督の婚約発表である。岡田は、無声時代に日本のバレンチノと騒がれた故岡田時彦のひとり娘、映画女優としては松竹のドル箱スター、すでに十年選手である。新郎の吉田喜重監督は東大仏文卒の俊才というので、ファンの関心も人一倍集まったわけである。
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挙式は来年五月ごろ
ふたりの結婚は、岡田が目下木下監督の新作「香華」に出演中なのでこれが終わる来年五月頃の予定である。
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会社側がけん制
岡田の誕生パーティーが盛大に東急銀座ホテルで開かれたとき、松竹の副社長城戸四郎氏がつぎのようにあいさつしている。
「最近、女優が結婚というなの堕落におちいることが多い。岡田君はそういう転落をせず、女優として演技に邁進してほしい。」
それはちょうど、有馬稲子と中村錦之助と結婚したころである。有馬が去ったあと、松竹のトップスターとなる岡田にたいして城戸副社長から投じたけん制球だといわれている。
・・・・
映画スターともなると、五社協定という会社間の協定によって、自己の芸術意欲を実現できず、また会社の営利制作のため、恋愛や結婚までが思い通りはこばぬということになる。
現代のほうが、少しは自由になったかと思いますが未だに週刊誌ネタはスターの結婚であり、なぜ結婚に踏み切れないのかは仕事と愛情との両天秤というところであり、ときは数十年過ぎていてもやはり同じことが繰り返されているようです。
1961
1962
1963
1964
1965
(青い文字は、雑誌本文記事です)