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1962年(昭和37年)の出来事について

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週刊朝日 1962年3月23日号よりnew
ナイター番組まかり通る

私は野球はテレビで見る方なのであまり気にはなりませんが、それでも好きな番組がナイターでつぶれるときは、ちょっと残念な気がします。そして雨になれとか、ドームだから中止にはならないかと思ったりします。
開幕前てんやわんやの民放局
プロ野球ナイター開幕前は、テレビ局のお家騒動シーズンとか。あっちの番組をこっちへ、こっちの番組をそっちへとエッサエッサさせる引越があると思えば、「どけ」「どかぬ」の立ちのき騒ぎでもむスポンサーも現れる。そんなドタバタがいまや最高潮で、民放界は気もそぞろ・・・・・。
人気番組にもあけ渡し要求
「わたしんとこはですね、どっっちにしてもナイターやることは希望しないんです。TBSテレビのナイターは弱いんですよね。川崎球場の野球で客がよろこびますか。それを、水曜はナイターをやることになったから、いまやってる「七人の刑事」(水曜夜8時)やめてナイター買え、と局でいわれる。わたしのほうは、去年まで提供してた「ニュース」の放送時間を二回も悪いところへ変えられてる。みんな局の一方的都合からですよ。このうえ、またまた最高の人気番組をやめろとは、商業道徳上ゆるせることですか」
・・・・・
私の家も、たしか「七人の刑事」を見ていました。もちろん今と違ってテレビは家に一台でしたし、昔風にいうならチャンネル権はもちろん親が握っていましたので、親が見るテレビ番組を私もみていたのです。
「七人の刑事」が意外なほどの大当たり。視聴率がぐんぐん上がって、今年二月の電通調査では早くもTBS随一の人気番組(東京地区で36.4%)にのし上がった。菅原謙二、芦田伸介、佐藤英夫ら七人の役者刑事たちへは、毎日何十通のファン・レターが舞いこむ、スタッフは張り切るで、「大成功万々歳」と一同乾杯しかけたところ、「あれはほかのスポンサーにゆずって、お宅はナイターやってくれ」と明け渡し要求の軍使が局からきたんだそうな。
「だいたい民放のやりかたは、一方的に強気で人情もなにもないからね」と森永乳業弘報部かんかんにおかんむりである。
・・・・・
橋幸夫も”N項パージ”に
TBSが日曜と水曜の夜8時から9時半まで、つまりことしの「ナイター」ワクに予定した時間に、いま定時プロを出しているのは日本ビクター、森永、のほか、寿屋「サンセット77」、理研光学「俺ら次郎長」、パイロット万年筆「ミステリーゾーン」の三社がある。一時間半のナイター二本をこの五社と縁組みさす方法は? このクイズをとくのに頭を悩ました局は、「ええい、めんどう」とばかり、理研光学、パイロットを番組ごと切ることに予定している。”N項(ナイター)パージ”とでもいうのだろうか。切られるスポンサーや橋幸夫(「俺ら次郎長」で主演)たちこそいいつらの皮で、橋君のファンなぞ、さぞかし「ナイターうらめし」と泣くのではあるまいか。
ふーん、この頃はテレビ局のほうがスポンサー様より強かったような記述があります。泣く泣くスポンサーを切られるということもあったのですね。
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日本テレビというところは、ナイターが休みの冬季間は視聴率もそうはふるわぬ。先月の電通調査でみると、夜のゴールデン・アワーの平均が14.9%。一位のTBS(19.3%)二位のNHK(18.3%)につぎやっと東京地区の第三位だ。
ところが夏は形勢まったく逆転、日本テレビがたいていトップに立つ。これがみんな巨人軍のカードを守り本尊にするナイター番組のおかげ。そんなことから同局は、ことしも例年通り週五回のナイターを組むことにした。
ふたをあけてみると、五つの時間ワクをねらい殺到したスポンサーが、なんと二十社を越すありさま。「これじゃおさまりがつかん」というので、局では一回のナイターを二社で共同提供さす”相乗り”化をはかった。これで十社を収容、あとは「来年でもどうぞ」としめ出したが、その中には「来年こそぜひ」といまからツバつけようとしてる社が二、三あるとか。

今の読売テレビ(日本テレビ)は、巨人戦でも放送しない訳ですが、このころは巨人様々で、みな日テレ詣でをしていたわけなんですね。やはり当時は「巨人、大鵬、卵焼き」だったころですから。
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ソデにされた「ボナンザ」
そんなこんなの日本テレビで、西部ものカラー映画「ボナンザ」はスポンサーのサッポロビールにみはなされる。同社は日曜ナイターを大正製薬と共同提供できることになったため、「おまえさんなぞ、ナイターをとるためのだしに使っただけよ」とばかり、四月一杯で「ボナンザ」をそでにすることになったものだ。
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横すべりする「アンタッチャブル」
昨年、日曜の薄暮ゲームしか中継しなかったNETテレビは、東映フライヤーズの好調に気をよくして、今年は火曜ナイターもやろうと大川社長が意気込んでいる。
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その火曜夜には、威勢のいい殺し場面で有名なアメリカ映画「アンタッチャブル」がいま両局ででている。なんかのと批判の多い番組だけに、NETでは去年の暮れ、郵政省から再免許をもらった際「もっと遅い時間にくり下げて、こどもの目にふれないようはからいたいと思います」なんていっていた。ところが最近は「せっかくの強力番組だから、水曜の同じ時間に横すべりさせ、日本テレビの水曜ナイターを食わせよう」という話が浮かんできている。
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そういえば、アンタッチャブルて結構遅かったような気もします。ローハイドも土曜の確か夜10時ぐらいだったから、もう終わったらすぐ寝なければなりませんでしたね。
まあ当時は、野球も相撲も別格のスポーツだったから、そして巨人が一番というか、巨人なしには、野球は無かったようなふうに覚えています。
週刊新潮 1962年8月27日号よりnew
ヨット青年太平洋横断記
--九十日間の恐怖と孤独--

快晴にめぐまれた日曜日午後のサンフランシスコ湾。手製の日の丸を掲げて、金門橋をくぐり抜けてきた小さなヨット「マーメイド号」に、冒険ずきのアメリカ人は大喝采を送った。
移民局長は、パスポートもビザも持たぬ、この日本人堀江謙一君(二三)に、一カ月の滞米を許し、サンフランシスコ市長は、姉妹都市大阪からの賓客に「市のカギ」を渡して、”咸臨丸以来”の壮挙を祝した。
西宮〜サンフランシスコ間8,800余キロを、堀江君の計算では、六、七十日、遅くとも八十日で乗り切れるはずだった。
堀江君のヨット歴は七年。高校時代に国体選手として出場をしたこともあった。”外洋航海”の夢にとりつかれてからは、大学進学をあきらめ、二年がかりのアルバイトでマーメイド号(5.8メートル、排水量一トン、平均三〜四ノット、最高十ノット)を買いこんだ。外洋航海のために特に設計してもらった”キングフィッシャー級”の小型ヨットで、船体が水没するほど傾いても、復元できる性能をもつ。補助エンジンはないが、羅針盤、六分儀、トランジスターラジオ、灯台の電波をとらえる小型の無線方向探知機を備えている。
私は船に乗ったといえば、大阪の川の渡しや遊覧ボートを除いては、瀬戸内海航路、敦賀小樽フェリー、稚内〜礼文島フェリーしか乗ったことがなく、何ヶ月もかけて太平洋を小さなヨットで単身アメリカへと考えるだけで恐ろしくなります。
堀江君の九十四日間の冒険航海記を、外紙報道から総合してみると・・・。
五月十二日、かねてから”決行”ときめた夜、マーメイド号は、食糧(米四十キロとカンヅメ二百個)、飲料水六十日分、それにコーラ五十本、ジュース百本、ビール六十本を積んで、西宮ヨット・ハーバーを出帆した。友人たちは岸を離れるまで、思いとどまることを忠告した。
紀伊水道をぬけた途端、暴風雨に出会った。積み荷のために喫水ふかく沈みがちの上に、暗礁が多いので苦労したが、何よりも海上保安庁の警備艇に発見されるのをおそれた。潮岬の沖合は、昨年中に十日間もかかって、潮流や波のうねりを充分調査ずみのところだけに、自身はあり、どうやら北上する黒潮にのることができた。
八丈沖を過ぎてまる二日、ようやく海上保安庁の監視網の外に抜け出てほっとした。あとは大圏航路(巨船の大洋横断コース)にそってアメリカ大陸へ。舟にセルフ・ステアリングがついており、カジにさわらぬ限り、ほぼ同一のコースを保てるはずなので、夜はぐっすり眠ることも出来る。ところが目をさますと、かなりコースをはずしていることが多く、北極星、金星を頼りに天体観測をするのだが、星は見えても水平線にガスが多くて、観測できぬことが多かった。
アラシには、前後五回出会った。舟べりの窓ガラスがこわれて、海水が浸入し、板をうちつけてしのいだが、時には海中に投げ出されかかったこともあった。ヨットの舟底をつきあげられたり十頭ぐらいの鯨の群れに衝突寸前にカジを取り、あやうく危機を脱したことさえあった。
六月末、たのしみにしていた日本のラジオ放送が入らなくなり、ハワイ放送が聞こえはじめた。好物の菓子類はなくなり、十日間も続くナギの日々には、さびしくなって”軍艦マーチ”や”上を向いて”を大声でうたった。積み込んでいたウクレレは教則本を忘れたので役にたたず五、六十冊積みこんだ航海記や冒険談のなかから、ヘミングウェー(老人と海)などを読んだ。
果てしない大海原の上で、孤独のおそろしさと、すばらし開放感とが、ないまざってやってくる毎日だったという。
八月十一日、西宮を出てから九十二日目に初めて水平線に陸地を発見した。一刻も早く上陸したかったが、海流が激しいので、大事をとって一日は沖合で停泊。翌朝、ダイダイ色の金門橋をはるかに望んだ時には、思わず”やったぞ”と大声に叫んだ、と語っている。
ついこの間も、二人でヨットによる太平洋横断をということで意気揚々と出帆しましたが、結果は船体破損で海難救助されるということになりました。現代の船、最新の装備でも遭難ということが現実になるわけです。
この当時では、彼の行為はどのような万全の計画と用意がなされていても勿論蛮勇でしかなく、たまたま成功したから英雄にまつりあげられたのだと思います。後の風船おじさんのようにいつの間にか消息不明で、痕跡もなくなってしまう可能性もあったわけですから。
何事も、冒険と死は紙一重であると思います。
週刊文春 1962年11月12日号より
フォノシート明暗二重奏

フォノシートといえば、音はちょっと悪いですが、LPレコード並みの曲数が入ったものが、レコードの何分の一かで買えるので、中学生のころは、結構かったものです。しかし、中には買ったもののオリジナルではなく、ナントカカントカ楽団演奏とかいうのもあって、それは失敗したこともありました。
盛んな海外受注とダンピングとの間
池袋のデパートの”ディスカウント・セール”でかなりの部数のフォノシートが、定価の3割引から半額で売り出されフォノシート界でちょっとした騒ぎを起こした。
シート業界の団体であるフォノシート出版協会では事態を重視し、関係者を呼んで協議した結果、”今後、このようなことがないようにする”という一札でチョンになった。
シートの販売方法は書籍類と同じく、発売後6ヵ月間は返品がきくというシステム。売出しのときは大流行だった曲も、半年後にはすっかりすたれてしまって、返品はまず二度と倉庫から出られない。返品の山に耐えられなくなったメーカーが、ついゾッキのルートに流したということらしい。
・・・・
お得意はローティーン
レコード会社のシートは、すでにシングル盤、LPでひととおり売り終わった曲を再録するケースが多いが、ほとんどは15歳を中心としたローティーンがお目当てだ。
「いったんシート・ファンになったローティーンは、少なくとも二十歳ちかくになるまでシートから離れないので、シート販売層は年々厚くなる」
というのが、強気のメーカーの見通し。
音質がEPなみに良くなってきたのは強味だが、日本のシートの音質のよさとカラー印刷の優秀さは海外にも評判が高く、最近は海を越えてシート制作の注文が殺到している。
こういう事情で、若い人が買ったのか。ちなみに私もそのローティーンの一人だったわけです。さらに、このころの語学学習用や、電機メーカーがフォノシートを製作しコマソンを多量に流したとかあります。
雑誌や、おまけにも1980年代までは、このフォノシートというのはありましたねぇ。
週刊アサヒ芸能 1962年12月16日号より
私はセクシーガール

変わったコンテストの顛末が巻頭のモノクログラビアページにのっています。セクシーガールコンテストというもので、応募者がネグリジェ(ネグリジェといっても、今ならさしずめ白のワンピースといったような表着風のおとなしいものです)をきてセクシーポーズを競うわけです。
”ミス・セクシーの女神”になった内田高子さん、と準ミスの岡本博子さん、榊不二子さん。
ことしもコンテストブームだった。あきれるほど、さまざまなコンテストがあり、中にはヘンなものもまじっていた。これもその一つで名づけて ”セクシー・ポーズ・コンテスト”さる十一月二十六日、東京・赤坂のナイトクラブで二十一名のセクシー嬢を集めて行われた。
審査方法はネグリジェ姿の参加者に勝手気ままにセクシー・ポーズを演じてもらうというもの。
・・・・
このコンテストは、映画「セクシーの夜」の公演を記念しての催し物で、応募者二百名の中から五十名を選んだが、モノがモノだけに当日出席したのはたったの二十一名。審査に先立ちリハーサルを行ったが、あまりのコンテストに逃げ出した十五歳の少女もいたそうだ。
客席の殿方には「つまらんショーをみるより、よっぽど楽しいわい」と好評。

今なら当たり前のようなグラビアページに仕上がっています。そういえばこの優勝の内田高子は、セクシー元祖のようなかたでした。センセーショナルな映画「黒い雪」に出演していたかたです。(映画は見ていません)小学校時代の私にとっては、当時こういうことはもちろん御法度でありました。
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(青い文字は、雑誌本文記事です)
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