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1960年(昭和35年)の出来事について

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週刊平凡 1960年2月17日号より
スリー・キャッツが生まれ変わる!

スリー・キャッツといえば、小学校時代「黄色いさくらんぼ」を聞いてわけもなく歌ったことがあるような・・・・そんなところですが
”黄色いさくらんぼ”のお色気異変
このところ”スリー・キャッツ空中分解”だの”黄色いさくらんぼの悲劇”だのと、スリー・キャッツのメンバーをめぐって、いろいろのウワサがみだれとんでいたが、二月四日、コロムビアは、新メンバーを発表した。退団したのは、上原由里江と梅田和代。新加入は佐伯みち子と堀田直江で、リーダー格の小沢桂子と新”スリー・キャッツ”を組む事になった。そこでメンバー交代の舞台裏と横顔を紹介しよう。
空中分解というウワサの舞台裏
・・・・
真紅の揃いの衣装で、イキのあった”ウーン”をきかせたが、実はリーダーの小沢桂子をのぞいて、梅田和代(20歳)上原由里江(21歳)は、この日劇の千秋楽の日(2月5日)を最後に、スリー・キャッツを退くことになっていた。
上原は妊娠 梅田は結婚
理由はこうだ。
結婚して一度メンバーからはずれたことのある上原由里江(代わりに佐藤由紀が入ったが彼女が再出発するので、再び退き、やむなく上原カムバック)に子供が生まれるということ。
これは当然の成り行きで仕方がないとして、あの茶目っ気で人気を集めていた梅田和代の場合は?
「結婚ですよ。もう相手も決まっています。やっぱり女として仕事と家庭の両立に悩むよりは、さっぱりと家庭一途の生活に入った方がいいんでしょう。」
・・・・
ナイトクラブでスカウトされた佐伯みち子
・・・・
彼女より何日か前に内定されたという堀田直江さんの場合は、たまたま、コロムビアの編曲をしている安藤氏に以前稽古をつけてもらったことがあるというきっかけで、安藤氏から、同社プロデューサー斉藤氏に紹介され、斉藤氏がスリー・キャッツ再編成に大童の最中だったので、・・・
こういう具合に芸能週刊誌の雄である週刊平凡だけに詳しくかかれています。佐伯みち子は東京生まれで山脇学園高等部卒で学生時代ハワイアンが好きだったとか、この記事だけで小学校時代であり呑気に子供時代をすごしていた私には、興味をひきます。この週刊平凡はたまたま安く手に入れたのですが、昭和50年60年代の平凡記事よりはずっと報道という面を表に出しているように思います。
週刊平凡1960年2月17日号より
20130530増補(写真)
週刊文春 1960年5月2日号より
テレビに背を向けるテレビスターたち

私が小学校の頃といえば、テレビが小三の時に家に来たことを覚えていますが、映画がまだまだ輝きを失っていず、銀幕のスターがやはり俳優、女優のトップに君臨していたとおもいます。この週刊文春にはこんなことがかかれています。
このところテレビスターの映画界入りが目だっている。
日本テレビの「茶の間のリズム」などで活躍してきた三田佳子が東映の専属に転向したのをはじめとし、KRテレビの笹森礼子、日本テレビ「SOSパリ」の吉永小百合らが相次いで日活入り・・といった具合。
この三人にそれぞれ”転向の弁”を聞くと−−−
まず三田佳子は
「映画に入ってほんとによかったと思います。テレビだけにでてると、小手先の器用ばっかりが身につきそうで不安だったんです。本格的な演技を身につけるるには、現状ではやぱっり映画ね。私のように演技力のない素人にはとても良い勉強になるんです」
・・・・・・
またKRの「赤銅鈴之助」の声優公募でこの世界に入った吉永小百合は、目下デビュー作「電光石火の男」に出演中、「石原裕次郎さんや小林旭さんらは大好き。だから、この人たちと一緒にお仕事ができると思っただけで幸福だわ。それに、テレビスターよりも映画スターのほうが人気も上だし、お金だって多いでしょう」とは余りにも無邪気な返答であった。
ゴモットモデス。参リマシタ!
ということらしいのですが、演技といえば、私はあまり彼女たちの映画を見たことないな。ラジオで赤銅鈴之助は聞いていたことがある・・・剣をとっては・・・と、ラジオから流れていた記憶が。
週刊現代 1960年9月25日号よりnew
一週間で卒業した特待生スター

映画スター木暮実千代の「スター・メーカーズ・スクール」は、開校してまだ半月にもならないのに、早くもそこからスターが誕生した。いくらスピードの世の中とはいえ、これはまた驚いた話。
東映「喧嘩野郎」でデビューした新人青木純子がそれで、総長である小暮の紹介で映画入りしたのだそうだ。
「スター・メーカーズ・スクール」の学則によると、三ヵ月間の一般科を卒業したものの中から映画、テレビ・スターの素質があり、本人もそれを希望したら専門科(三ヵ月間)にいれ、演技指導などを行い、映画、テレビに推薦することになっているため、彼女はそれをたった一週間でものにした特待生?ということになる。
今では、このような歌手や俳優を養成する学校は沢山あるでしょうけれど、このころはそうそう多いとは思いません。そんな学校に入れてすぐに映画デビューといえばもう願ったり叶ったりの女優さんだったと思います。
だが、彼女は昨年の暮、NHK「歌の広場」が新人歌手養成のため、”ニューボイス”制度をはじめたとき、第一回のニューボイスとして登場、これが縁で間もなくビクター入りした、テレビではすでにおなじみの人気者。テレビに出るようになっても映画会社のさそいを断って歌手一途に歩んできただけに、「東映から電話があって、撮影所へ行ったら台本を渡され、明日からセット入りしてくれといわれたときには驚いてしまった。小暮総長の推薦だし、断る間もなかった・・・・」と、ご本人は語っている。
死んだ母にかわって家庭を切りまわす検事の娘が、こんどの役。小野透の相手をつとめ、人質にされたりして物語発展の中心人物という重要な役どころ。
「役のことより、どうして小暮総長がわたしなんかを推薦したのかさっぱりわからない」と、いまでもキツネにつままれたような気持ちだという。
歌手で一人立ちできそうな彼女が「スター・メーカーズ・スクール」に入学した動機もわからないし、その前歴を知ってか知らずか入学させた学校側のネライも不明。だから「スター・メーカーズ・スクール」の実績をあげるための一手段?・・・・というのが常識的な見方だが、とにかく、彼女の今後の活躍で、優秀なタレントに成長してくれるならば、やはり特待生といえるわけだ。(記事終了)
ふとしたことが切っ掛けで、映画やテレビドラマの主役や重要な役どころが与えられてスターになることができるというのは今ではあたりまえですし、それを不思議がられることもあまりないと思います。(その裏には地道な、活動があるのかもわかりませんが)
最近はタレント学校や、コンテストが登竜門のようですし、漫才や舞台役者からでもびっくりするような出世を成し遂げたかたも多々います。
当時は保守的でいわば徒弟制度が当たり前で、かなり有力な映画、演劇関係者に引き上げて貰わないとなかなか成功するのは難しかったと思います。
この青木純子というかたは、歌手からいきなり映画女優にというオーディションもなく、出演できたということで記事としてとりあげられたのだと思います。 2012-12-03記このページのトップへ移動
週刊現代1960年9月25日号より
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(青い文字は、雑誌本文記事です)
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昭和の時代を見るために参考になる図書を紹介します 昭和の雑誌を主に載せています。男性誌が多いです 平成の雑誌を主に載せています。男性誌が多いです 10年ごとの年代の年表です

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昭和35年というと、ローマオリンピックの年ぐらいしかおぼえてないというか、記憶には小学校時代の断片がかすかに残っているだけです。この頃は年代も前後していて、年表等で確認しないと間違う場合もあります。
実際に私にとっての小学生時代は「歴史」であって、本で読んで思い出すまたは、新発見ということの連続です。そういうわけで、この頃の記事も紹介していきますが、はっきり言って雑誌を読んでみてもそれこそおばかなヘキサゴン状態です。