1958年(昭和33年)の出来事について

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週刊朝日 1958年3月2日号より
南極という恐るべき相手
--- 省略 ---
昭和基地のカラフト犬
もの言わぬ”隊員”の横顔
「残された犬のことを思うと、ニュースを聞くのも恐ろしく、新聞を見るのもこわく、ご飯ものどを通らない有様です。人命はもちろんたいせつですが、戦時ならともかく、平和の今日のことですし、何としてでも犬も助けてくれるようお願いします」
このところ連日、こんな手紙が朝日新聞南極学術探検事務局にも、百通以上も送られてくる。
私が小学校低学年の頃のことですが、この頃家では猫を飼っていました。飼い方としては当時あたりまえだった放し飼いで、逆に言えば野良猫に餌をやっていただけなのかもしれません。そんな頃に、この犬たちのことが報道されているのですが、あまりよくは覚えていません。
道産子の十五匹
子犬八匹と母親のシロは救出されたが、なお昭和基地には十五匹のオスの樺太犬がクサリにつながれて残されている。最後の飛行機が飛びたつときに、いっせいにほえたというこの十五匹は、その名前さえ文部省の何局地域観測統合推進本部にとどめられていない。物言わぬ犬たちの横顔を、最初にご紹介するのも無意味なことではあるまい。体重は出発当時の数字である。
リキ=七歳、灰褐色、体重三十五キロ。旭川の三上秀逸氏の愛犬だった。ほかの犬たちがほえたてても少しも動ぜず、食事のときもガツガツせず、ゆったりしていて王者の風格があった。いったい、犬ゾリは先頭にいちばん利口な犬をつけるのが建て前で、曲がる場合に、続く犬たちが曲がりやすいようにゆるやかに回るコツや、分かれ道にきた場合、ソリ上の人間の命令を待つチエを備えていなければ、先導犬の栄誉は与えられないのである。リキは優れた先導犬であった。南極へ向かう船内で、他の犬のように騒ぎまわらず、犬群の中央にゆうゆうと落ち着いていたせいか足底が柔らかくなって、現地で先導犬としてすぐには使えなかったため、後方につけたときには、えらく不満の様子だった。やがてもとのように先導犬の地位を与えられると、すばらしく元気になった。
アカ=六歳、褐色、三十四キロ。カンが強く、やや神経質だが、セパードの血が入っていたせいか、優秀な犬だった。
ポチ=三歳半、褐色、三十八キロ、利尻島生まれ。十五匹中いちばんの大食漢でいつもガツガツしていた。隊員が別れるときに与えた一匹当たり六本の干ダラを最初に平らげてしまったのは、このポチかもしれない。
アンコ=三歳、褐色、三十六キロ。甘ったれで、愛敬があり、ソリはよく引っぱったが、他の犬にふざけかかるのが好きだった。
クロ=四歳半、黒色、三十四キロ。これもあまったれで、隊員がほかの犬をなでたりすると、そばにすり寄ってクークーと声を出した。
タロー=二歳、黒色、三十三キロ。
クマ(紋別)=四歳、黒色、四十三キロ、オホーツク海に面した紋別生まれ、後述の風連のクマと同名で、なかなかの暴れん坊。
ペス=五歳、褐色、二十九キロ。
シロ=三歳、白色、二十九キロ。女性的なおとなしい犬だったが、利口な犬で、現地に着いてから先導犬となった。シロが先導犬として走ったときは、皆、「シロが走った走った」と喜んで手を打った。
ゴロー=三歳、黒色、四十五キロ。アンコ、タロー、ジロー、と兄弟である。十五匹のなかでいちばん大きく、大変な暴れん坊で、使い物にならぬと思われていたが、現地ではよく働いた。
モク=三歳。黒色、三十八キロ、旭川の西の深川生まれ。
ジロー=二歳、黒色、二十八キロ。
ジャック=四歳、白と黒のブチ、三十五キロ。
クマ(風連)=五歳半、三十七キロ、旭川の北の風連生まれ。クマという犬は、このほかに前出の紋別のクマ、行方不明になった比布のクマと、三匹いた。犬は最初につけられた名でないと、自分を呼ばれたと思わないので、同じ名がぶつかるわけだ。はじめて船から降りるとき、この風連のクマが逃げ出した。いちばん力が強く、ケンカ好きの犬だ。やっと取り押さえられた間に、他のクマがひき綱をたるませてサボる。そのたびに「クマ!」と叱声が飛ぶ。おこられたばかりの風連のクマが、また叱られているのかと勘違いし、いっそう力をいれて引っ張るのが、かれんだった。タロー、ジロー、ゴロー、アンコと四匹の父犬である。
これら、とりどりの愛すべき個性をもった十五匹は、すべて北海道の生まれである。
猫でも猫それぞれに個性があって、非常になつく猫と、本当に距離を置いてしかなつかないという猫がいました。あとになって犬を飼ったのですが、犬には距離を置かれるということはないのですが、その家庭の人たちそれぞれの役割を分かっているような気がして、一緒に散歩に行くことが少なかった私よりは、母に非常に親愛の情をあらわしていたように思います。食事も、散歩もしてくれたからでしょう。
善良な労働犬
もともと、樺太犬はその名の通り、いまはソ連領土となった樺太が原産地だが、現在、北海道全部で千匹ばかりいるといわれる。保健所に登録されているのは五百匹ほどだが、その中から選りすぐられて南極に派遣されたのが、いまは昭和基地に残されている十五匹の犬なのだ。この犬たちの大半は北海道の漁場や、八百屋さん、肉屋さん、牛乳屋さんそのほかで、犬や牛の代わりに、労働犬として働いてきたものだ。うち五匹は、
「どうしてもお国のために必要ならば喜んで差し上げましょう」
と、飼い主から寄贈されたものである。買い上げられた側も、五千円からせいぜい一万円という、考えようによっては安い値段であった。なぜなら、樺太犬はふつうの番犬とはちがう。まして愛玩犬でも、ショー・ドッグでもなく、その家にとっては生活上欠くことのできない労働犬だったからである。
樺太犬がソリ犬として使われたのは、今度が最初ではない。明治四十五年の白瀬中尉の南極探検にソリ犬としてつかわれたのも、この樺太犬だった。昭和基地の四台の雪上車がダメになってから、この一年間、唯一の機動力として樺太犬の活躍はめざましかった。基地から往復四百四十キロ(東京−米原間に相当)もあるポツンヌーテン山遠征を含めた、千五百キロ(東京−鹿児島間にあたる)の踏破距離を記録し、外国観測隊のハスキー(エスキモー犬の一種)に少しもヒケを取らなかった。外国犬が数世代にわたって極地犬としての集団訓練を受けているのにくらべ、いわば寄せ集めの樺太犬が、これだけの成果をおさめた手柄は特筆すべきだろう。
粗食に耐え、どんな吹雪の中でも決して道に迷わず、薄氷は本能的に避けて通り、寒さに強い樺太犬は、ソリ犬としての十分条件を備えているが、一面ケンカ早く、仲間で大ゲンカが始まると、仲裁に入る人間にまでカミつく荒っぽさで、隊員たちの手を焼かせた。かと思うと、氷海で犬のえさのアザラシ狩りが始まると、村田銃のズドンという音に、こっけいなほどおびえた。ガタガタふるえて、尾を丸め、中には腰を抜かしてしゃがみこむ犬さえあった。ペンギンが「クワッ」と叫びながらくちばしを一ぱいにあけて威すと、人間と間違えるのか、降参するという、どうも猟犬には?かないたちと見えた。
「ブラーイ、ブラーイ」
というギリヤーク語で、止まれ!という号令が掛かるまでは、どこまでも走り続ける、根っからの善良な労働犬なのだ。
--- 省略 ---
(記事終了)
南極観測での「タローとジロー」の物語は良く知れ渡った物語ですが、ここにでている犬たちが、南極に残された犬です。おのおのの犬の性格などがよく書かれていますが、タローとジローに関しては、データとして、年齢、毛色、体重しか書かれていません。
若かったからあまりエピソードがなかったのかどうか分からないですが、この記事は本当に、’59年の劇的生還の予兆もないのが興味深いです。
極寒のなかで1年も生きていけるというのが素晴らしいですし、運良くクサリか首輪がはずれたのが生存の鍵であったとは思いますが、長い長い一年であったと思います。
つくづく動物(特に犬や猫)は人間の親友であると感じます。
(注・この記事は、「社会時評、今日の焦点」4ページに渡る”南極観測で氷に閉じ込められた観測船宗谷とその計画不備を評した”記事の一部です) 2012-10-23記
 
週刊新潮 1958年5月5日号よりnew
ロカビリーの落日
−−わずか二ヵ月で去った旋風−−

ガランとした客席に舞台の上のロカビリーの騒音が空しくひびいていた。客の入りは三割前後、最前列に陣取った、”親衛隊”の娘たちが投げるテープもうつろな感じをともなう。
去る四月十九日夜、日比谷公会堂で開かれた「山下敬二郎の夕」、山下のほかゲストにミッキー・カーチス、寺本圭一らをそろえ、ロカビリー歌手の催す初のリサイタルとあって各方面から注目されていたのだが、いざ幕を開けてみるとこの始末。
日本の音楽の歴史の1ページを飾ったロカビリーですが、この記事、週刊誌的批判や揶揄が少々有るとはいえ、語り継がれているロカビリー伝説がこのような”たった二ヵ月”という感じであったのか・・・そんな思いです。
もちろん私はこの頃小学校の低学年、見に行けるはずもまた話題すらも知らなかった頃です。
今はこの頃のことを美化されすぎているのかも知れません。
企画をしたA音楽事務所は、かつて丸山明宏をほりだして当てたプロモーターで、ロカビリーの火の手があがるや、すぐさまこのプランをたてたのだが、山下側のマネージャーとの交渉がはかどらず、伸び伸びになって時期を逸したのがこの失敗の原因だという。「もう一ト月早ければ・・・」と主催者はくやしがっている。
それにしても、日劇の「ウエスタン・カーニバル」で旋風をまきおこしたのが二ヵ月前、街の人気をさらうのも早かったが忘れられるのははるかにそれを上まわっている。マダム・ロカビリー渡辺美佐さんのご託宣によると、あと一年はもつという話だったが・・・・。
山下敬二郎という歌手の方に問題があった(それほどまでに人気者で無かった)のかも知れませんが、とにかく不入りで失敗ということらしいです。
昔を思い出させるような、白黒のニュース映像で熱狂的な画像しか見ていない者としては、何となく裏切られた思いと寂しい思いが交錯します。
2013-04-11記
 
サンデー毎日 1958年9月7日号より
ネット・ワークの再編成
ドロ仕合続くテレビ界

各地の民間テレビが続々店開きしだしたがこれにともないネット・ワークが当面の大問題。東京の二大キイステーション局である日本テレビとラジオ東京は、地方局とニュースの交換や番組の提携を行って、ネットの拡張をはかってきた。この両キイステーション局のツバぜりあいは、いままでもかなり激しかったが、いってみればこれはまず”冷戦”。ところが、二十八日の読売テレビ(大阪)、テレビ西日本(八幡)の開局をひかえて局面は一変、ガゼンはでな戦闘になってきた。
このころには、私の家にテレビはまだ来ていなくて近くのテレビがあるお金持ちの家に見に行く毎日でした。運がよけりゃ母が「うどんたべに行こうか」と言い、つれて行ってもらっては置いてあるテレビを見たものです。
「デズニーランド」の時が行く事多かったと思います。近くのおうちにおじゃまする時は、母から、食事時は「行ってはあかん」といわれてがっくり。ちょうど午後七時はいい番組目白押しでしたから・・・。
火つけ役は日本テレビ。読売テレビや、テレビ西日本の開局するちょうど一週間前の二十一日、大阪テレビ、山陽放送、RKB毎日放送を尋ねて「今後番組の送り出しを停止する」と一方的に通告してまわった。つまり日本テレビとしては、自分の系列下にある読売テレビ、西日本放送(高松)、テレビ西日本だけに自社制作番組を集中的に送りこみ、はっきりしたネット・ワークを打ちたててしまおうという作戦。打ち切るといっても、打ち切りかたはさまざまで、たとえばいままで毎週日本テレビが十六本の番組をネットしていたら大阪テレビは十六本とも全部打ち切り、これをごそっと読売テレビにもっていく。山陽やRKB毎日には三、四本残して、大部分は西日本なり、テレビ西日本なりに移動させる----と日本テレビは説明している。
生放送か撮影映像しか流せなかった時代に、急にこれだけの本数を打ち切られたら大変です。昼下がりの午後2、3時間とか夜中は放送がなかったとはいうものの、空く穴は大きかったでしょう。
この強引なやり方に大阪テレビ側はあっけにとられたり、憤慨したり。大阪テレビが「間ぎわになって打ち切りをいいだすとは」と腹をたてれば、日本テレビが「前から予想できたはず。一週間前に通知したことで充分」と一蹴。また大阪テレビが「十六本全部のスポンサーが移動を納得したとは信じられない」といえば、日本テレビは「全部のスポンサーに同意を得ている」と、こんなぐあいにことごとに対立、典型的なドロ仕合の症状を呈してきた。
見方をかえればこの問題、最近とくに結合を堅くしてきたラジオ東京----大阪テレビ----RKB毎日----山陽放送のラインに対する、日本テレビの挑戦ともいえる。しかしこれまで、個々のスポンサーの希望によって、勝手放題な組まれ方をしていたテレビのネット・ワークが、これによって、好むと好まざるとにかかわらず再編成され、よりスッキリしたものになるのは明らかだ。
現に、日本テレビのネットを打ち切られた局に対してはラジオ東京が積極的に応援の手をさしのべており、いまのところ民間テレビ界は、ラジオ東京・ラインと日本テレビ・ラインとに大きく二分されつつある状況。
しかし問題はまだこれから。年内には大阪に毎日テレビ、関西テレビが、また来春には東京に富士テレビ、日本教育テレビができる。これらがそろって放送しだせば、いまのネットはふたたび大きく揺らぐ。そのさいどんなネット地図ができるか予想もつかないのが実情。自局の利益ばかりを考えず、視聴者の利益を頭において明朗なネット・ワークをつくってもらいたいもの。電波は国民のものなのだから。(記事終了)
富士テレビと日本教育テレビは毎日や関西テレビよりもできたのが遅かったのか。日本テレビが早かったのは知っていましたが。
ここらの泥仕合は、ほとんど知りませんでした。小学校低学年の頃でしたから・・・、日本教育テレビがNETとなってそれから、教育番組も放送していないのにNETじゃだめだろうとかなんとかいわれて、テレビ朝日に変わったんでしたかね。
今や地上波、BS、CSと番組がひしめいている時代、視聴者側はある程度選択肢が豊富に持てるわけですが、その内容は、似たようなものということもあり、良くなったのやらどうなのでしょうか?
しかしこういう電波や番組をめぐる問題は、今もあまり変わっていないような感じですね。 2012-10-23記  
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(青い文字は、雑誌本文記事です)