1959年(昭和34年)の出来事について

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サンデー毎日 1959年2月1日号より
第一次越冬隊と「タロ」「ジロ」
タロよ、ジロよ、よく生きていたね。第一報は十五日午前零時一分に文部省へ届いた。おかげで成人の日なのに日本じゅうがきみたちの噂しかしなかったよ。
日本では、昨年秋からジメジメと暗い事件が続きすぎていたところだ。きみたちの健在というニュースは、そんなうさをいっぺんに吹き飛ばしてくれたんだ。まるまると太ったんだって。タロよ、ジロよ、ほんとうによかったね。
「タロ」と「ジロ」は同腹の兄弟だ。
いずれも真っ黒なカラフト犬だが、「ジロ」は胸の部分と足の先が白く、エプロンをして白タビをはいたような愛敬たっぷりな格好をしている。
昭和三十年の秋に、日本の北端、稚内市で生まれた。はじめ「タロ」「ジロ」「サブロウ」と三兄弟がそろっていたが、「サブロウ」は間もなく腰椎の神経をいためて、腰が立たなくなり、南極へも行かずに死んでしまった。
母親の「クロ」は、稚内市のパチンコ屋さんに健在だが、父親はやっぱり昭和基地に残されて行方不明の「風連(フウレン)のクマ」である。
「風連(フウレン)のクマ」は、頭はちょっとドンだが、一生懸命にソリをひくよい犬だった。弱いくせにケンカが好きで、生傷の絶え間がない。とうとう大事な犬歯まで折って、それからはケンカをあきらめたようだった。酷寒の氷原でこの父と子は、どのような別れかたをしたのだろう。
チャッカリ屋「ジロ」
同じ兄弟でも、「タロ」と「ジロ」はだいぶ性格が違う。
三十二年の四月、越冬隊が雪上車でラングホブデ(長頭山)まで旅行したとき、犬も何頭かお供した。「ジロ」もその中に入っていた。ソリをひくわけでなく、雪上車について走ってくればよいだけで、犬にとってはラクな旅行だった。それでも何キロも走り続けると犬も疲れてくる。ほかの犬がフーフーいいながら雪上車について走っているのに、「ジロ」だけは走ってこない。見ると後ろのほうにポツンとすわりこんでいる。呼んでも来ないから、しかたなく迎えにいく。迎えがつくまでジッっと待っている。「どうせ見捨てて行きっこない・・・・」と足もとを見すかしてでもいるようだ。シャクにさわるがしかたがない。雪上車に乗せてやると元気になる。しばらくしておろすとまた走るが、すぐにしゃがみこんでしまう。実にチャッカリしているのだ。それでいて、ジャレついたり愛想がよいからにくまれない。
クソマジメな「タロ」
その点、「タロ」はいつもボソッとしていた。しかし、いったん仕事となると見事な”ガンバリ屋”ぶりを発揮した。三十二年の十一月から十二月にかけて、犬ソリでプリンス・オラフ海岸の調査旅行が行われたときである。気温が上がり、氷の状態が悪く、犬たちにとってはつらい旅行だった。ザラメ雪で「タロ」は足の裏をいため、ポトポトと血をしたたらせながら走っていた。「それでも痛いような格好もせず、実によくがんばった」と、犬係だった菊地徹越冬隊員はいっている。見るに見かねて、西堀隊長がクツ下をはかせてやったほどだ。
要領のよいチャッカリ屋と、クソマジメなガンバリ屋が、うまいぐあいに力をあわせて生き延びてきたものと思われる。
本当に、生きていて良かったのですけれど、当時小学校の低学年であった私はそれほどまでに熱狂歓迎したのかどうか疑問です。
家にテレビはまだでした。ラジオと新聞で知る機会があると思いますが、ラジオは、少年少女ドラマしか聞いていなかったですし、新聞は、ある程度漢字が読めるようになった私が見ていたのかどうか?
「ジロ」のロマンス
「ジロ」には越冬中にロマンスもあった。相手はメス犬の「シロ」。越冬に加わった十九頭の犬のうち、メスはこの一頭だけだ。日本を出たときには、まだ生後二ヵ月の子犬だったのだが、昭和基地にいるうちに、だんだんと成熟して思春期を迎えた。周囲は屈強な好青年ばかりだから、自分で意識するのか、立ち居ふるまいも人一倍女性的である。オス犬たちには激しい恋のサヤ当てがあった。
三月に第一回のシーズンがあったが、これは親代わりの越冬隊員の計らいで見合いもしないで見送った。このころに子供をはらんだら、出産がちょうどいちばん寒いときにあたるし、第一回目をはずすのが常識でもあるからだ。
二回目は八月にやってきた。
「おムコさんはだれがよいか」
基地では議論がフットウした。その結果、選ばれたのが「比布(ヒップ)のクマ」全身真っ黒で耳がピンと立ち、肩幅広く、胸も張っている。孤独な性格で少々オッカないが、ソリの引き犬としても、よい犬だ。ところが、人間のオメガネは犬の世界では通用しないらしく、「比布のクマ」はヒジ鉄をくってしまった。
「では・・・・」というので、二番手にゴロが選ばれた。これも黒い毛がふさふさとして性格もいちばんよく、ソリを引く力が最も強い好青年だったが、これもダメ。
そのうちに、ある日、「シロ」はたくみにクサリを離れてトコトコと「ジロ」のところへ行き「アッ」という間に結婚してしまった。「シロ」と「ジロ」はもともと仲がよく、よくジャレあっていたものである。
犬たちは結構簡単に増えていくものだと思ったのは我が家で犬を飼いだした私の高校生時代からです。
たまたま我が家に来た犬たちが相性がよかったのかも知れませんが・・・。もちろん当時は当たり前であった、雑種同士の子供が生まれましたので、犬相は皆バラバラで、柴犬のような子犬や、いかにもシェパードの子といったスッキリした子犬もいました。
そしてその子犬をどこへもらってもらうかが悩みの種でした。友人やその友達を呼んできては、養子口が決まったと喜びました。
「ジロ」の子は内地に
失恋(?)した「比布のクマ」は、そのためかどうかわからないが、間もなく、失そうしてついに基地へもどってこなかった。
このときにできた子供が、ヘリコプターで救出された八頭の子犬である。「シロ」「ジロ」の後で、別のオムコさんをも選んだから、この八頭が「ジロ」の子供だとは限らないが、「メスが自分のほうから寄って行ったときは、いちばん適期なのだから、たいてい受胎する。きっと「ジロ」の子供がいるだろう・・・・・」
と、東大農学部(家畜内科)の大越伸教授も、指摘する。奇跡を生んだ「ジロ」の子孫は、すでに日本にいるわけだ。
一年間の犬の消息
「タロ」も「ジロ」も、三十一年の秋に東京を船出した。同行のカラフト犬は全部で二十二頭。プリンス・ハラルドまでの長い船旅のあいだに「モク」が心臓を悪くして死んでしまった。子犬の「ミネ」はハッチからころがり落ちて足を骨折、宗谷のレントゲン室の第一号患者になった。「トム」も老犬で息が切れそうなので、負傷した「ミネ」とともに、日本へ引き返すこととなり、結局越冬に加わったのは十九頭だった。
越冬中には、まずベックが病死した。解剖したら腎臓が悪く、ボウコウ結石を起こしていた。人間なら苦しみもだえてしぬところだが、ベックは基地の一隅に静かに横たわっていた。旅行に出かけていた犬ソリ隊が帰ってくるのを待って、「ワン、ワン」と歓迎の喜びを伝えてから、ひっそりと息を引きとった。”比布のクマ”が失踪した足跡は基地とは反対の大陸のほうへ消えていた。「シロ」が八頭の子供を生んだが、つづい「テツ」が老衰でなくなった。
翌年、宗谷が再び現れたときには、犬は二十四頭になっていた。そして十五頭がクサリにつながれたまま置き去りにされた。そして三年目、生き残っていたのは「タロ」と「ジロ」だけだったのである。(中略)
・・・・・・
・・・・・・
「タロ」「ジロ」の今後
「タロ」と「ジロ」をこれからどうするか。善後処置の問題が、いま持ち上がっているが、動物作家の戸川幸夫氏をはじめカラフト犬の研究家、動物愛護協会理事長でもある斎藤弘吉氏らは、「タロ」と「ジロ」は宗谷でつれもどしてほしいといっている。
「タロ」「ジロ」を加えて、こんど連れて行った二頭のオス犬と一頭のメス犬の五頭は、メスがことし五月には発情期を迎えるので、来年一月までには数頭ふえる。成犬一頭の重さが三十五キロ、子犬二〇キロとみて、全部で二百キロにはなるだろう。二百キロのお荷物は大きすぎるという理由で、また昨年のように氷原におきざりにされるような悪い事態にならぬとは限らない。昨年のおきざり事件について世界動物保護連盟からも岸首相あて厳重な抗議電を打ったが、動物愛護協会では十九日、文部省南極統合本部長橋本竜伍氏あてにこの趣旨をのべ、最低メス犬だけでも帰して子犬のお荷物がふえないようにと心配している。
もっとも東大農学部の大越伸教授のように「無事に日本の土地を踏んで、安楽な生涯を送らせてやりたい」という気持ちのうえで、さらに「ただ、ことし連れて帰るべきかどうかということは南極の事業の最初から終わりまで生き抜いて貴重な研究に協力してこそ、真の殊勲甲になりうるということを考えるべきではないか・・・・」との意見もある。「タロ」と「ジロ」の今後の身のふりかたには、まだいろいろと議論が多いだろう。(記事終了)
映画にまでなった二頭のヒーロー犬は、多くのカラフト犬の生き残りであったのですが、この後、二頭の最期は本当に覚えていません。もちろん話題になったはずなのでしょうが・・・・。2012-12-25記

(参考記事
置き去りの記事
週刊現代 1959年4月19日号より
ジンクス破るかザ・ピーナッツ

ザ・ピーナッツといえば、21世紀になっても、いままで一番売れた双子の歌手ということになると思います。いろいろな双子のかたがデビューしましたが、やっぱりピーナッツです。
コーラスブームのおとし子として出てきた双生児デュエットのザ・ピーナッツが、C社、V社、T社、K社の四レコード会社からおいかけまわされた末、三月三十日、K社で”ピーナッツ・ヴェンダー”と、”可愛いい花”を吹き込んだ。
昨年六月「仲が良いので何時も一緒にいようとして始めたコーラス」が、十二月に、名古屋で渡辺晋に認められて上京。この二月に日劇でデビューして以来株を上げて、現在はTVのレギュラー番組を二本持つほどの人気。そんな人気がレコード各社に買われたわけだが、当の二人は、まだあまり欲がなさそうで、もっぱらロカビリー・マダム渡辺美佐のペット的存在として「買い物に行くのが楽しい」と至ってノンビリ構えている。それでもバレエを横山はるひに習ったりしているが、この伊藤エミ、ユミの一卵性双生児の前に立ちふさがっているのが、双生児は成功しない、という芸能界のジンクス。今までにも山本照子、和子の姉妹を服部良一が目をかけたり、岡田姉妹がタップで売り出したりしたが、何れも大成していない。それだけに、こんどのザ・ピーナッツの今後が注目されるわけ。
もし、この双生児が、成功すれば、双生児は育たないというジンクスが破れるわけ。世の双生児が、ぞくぞく名乗りを上げるようにもなろう。
このときからもう50年になろうかとしていますが、双子というと、こまどり姉妹、リリーズ、・・・?あまり思い出しませんね。最後のほうにでている、山本、岡田姉妹ってどういう方だったのでしょうか。まったく知らないですね。実際、このザ・ピーナッツのデビューですら、私はまだ一桁年齢のときですから、覚えていないです。
サンデー毎日 1959年6月7日号よりnew
オリンピック東京に来る
経費二百億円への挑戦
二百億円への挑戦---第十八回オリンピック東京開催決定とともに動き出したものは本来の競技をどうするかということより何より、そのことだった。
ベルリンに次ぐ東京大会を戦争で投げ出してから十九年、敗戦後の独立回復からこれも数えて八年、街に待ったことだろうが、まず費用の調達、施設着工、主催国としてふさわしい競技種目の向上と、さぁこれからが大変だ。
それ”五輪旗”それ”日の丸”
「東京がオジャンになれば、こちらとしては十万円の損ですむんだがな」
今さら、それもえんぎでもない話だが、東京オリンピック決定の第一報が東京神田駿河台の日本オリンピック委員会の事務室にもたらされた五月二十六日夜八時十五分のちょっと前---事務員の間でそんな冗談がささやかれていた。
IOC総会の投票結果がわかるのは二十七日未明だというんで、そんな冗談もいっていられたんだが。それより六、七時間も早く、IOC総会の投票は投票総数58のうち日本34、ウィーン9、ブリュッセル5、デトロイト10の圧倒的支持で第十八回オリンピック東京決定とはいってきたんだから事務室は”ワーッ”という喚声とともに大変なさわぎになった。
今とは違って投票結果を国で、待っているだけだったんでしょうか。このころ私は小学生でしたが、そうそうオリンピックが決まったという感じはなかったようです。いずれにしろ遠い東京での出来事でしたから。
オリンピックが来るなと思い出したのは、オリンピック競技種目が題材になった募金付きオリンピック切手が発売されるとなってようやくであったと思います。
この年月の流れって、戦争に負けてオリンピック決定までの期間が平成になってから現在までより短かいことにびっくりです。
次回に続く 2013-09-10記

週刊文春 1959年10月17日号より
一円玉一コ一円三十銭ナリ
通貨増産五カ年計画の内幕
十月一日、次官、官房長、各局局長のお偉方があつまった。大蔵省の省議である。
席上、「いったい数あるお札の中で、どの札が一ばん汚れているだろう」ということになった。出席者全員分厚い?札入れを内ポケットから取り出し、お札をならべてみた。
五百円札が一ばんきたないのである。ついで千円札、一万円札。ということは五百円札の流通がもっとも悪い、という結論なのだ。
この時代は500円札があり、岩倉具視の肖像が描かれている札でした。500円って私が思うに一番きれいな印象があるんですけれどね。私が500円札を持てるずっと昔の話ですから、千円札よりも五百円札のほうが活躍してよく汚れたのかも知れません。
私のころは、千円札の方が、汚れていました。そして、昭和37年頃でしたか偽千円札事件で、聖徳太子から伊藤博文の肖像に変わった1000円札になりました。
----ところでこのお札あそび、決してお偉方の暇つぶしなどではない。
池田首相のキャッチフレーズ通りなら”所得倍増”で庶民の月給袋は急激にふくれ上がる。
そうなければ、お金の方も大増産しなければ追いつくまい。日銀でも、「汚いお札は事務能率を低下させるから」といって、発券局から、新しく通貨を製造するように、要求を出している。
大蔵省としては「通貨製造計画」なるものをねらねばならなくなった。
いわゆる金算段ではない。金そのものを作ろうというのだから省議はスムースに運んだ。そして、五ヵ年計画なるものが打ち出されたのである。
----いま日本国内には一万円札から一円玉まで合わせて、九千七百億円の現金が出回っている。この現金を、日本経済の拡大に見合わせて増やしてゆこうというわけだ。
ところが、いま出回っている通貨のうちお札は大蔵省印刷局で、補助貨幣は大蔵省造幣局でそれぞれ作っているわけだが、肝心の印刷機はほとんどが昭和初期のもので、とっくに寿命が過ぎてガタガタの状態。貨幣鋳造機いたっては明治時代から使っているものまであって、「このオートメーション時代に・・・」
と大蔵省の役人でさえ苦笑するくらいだ。
だから、いきおい、品不足。しかも、今年に入ってから自動販売機ブームや赤電話の増設で、十円玉がひっぱりだこ。一円玉ときたら、いくら作っても流通度がわるい。家庭のタンスの片隅、職場ではデスクの引き出しの中にほうり込まれたまま陽の目を見ない、という場合がおおいからだ。最近では大阪の電器商が電器部品を止める座金に一円玉を使っているらしいという情報が入って、担当官たちを嘆かせたものだ。
消費税導入時にも1円玉が足りないという記事がのり、家庭の片隅に埋もれている1円玉をどんどん使用してくれとか、そんなニュースがありました。
五ヵ年計画を決めた大蔵省の省議でもこの一円玉残酷物語が披露され、「いっそ一円という単位を廃止してはどうか」という意見まで飛び出した。が、それではデノミネーションの措置と受けとられやしないか、との反対が出て、ついに見送りとなった。
さて、一円玉の製造原価は、大蔵省は極力公表を避けたがっているが、なんと一円三十銭もかかる。一万円札が百七十円、十円玉が二円である。もしこれを民間の工場に発注するなら、二割方はやすくなるともいわれている。
それが、こんなに割高につくのは、一つは、印刷、造幣局の工員たちには、勤続何十年という老人の高額所得者が多いので、人件費がかさむからだ。独占企業にありがちな、矛盾が、そこにはある。
どうせ五十億もかけて、踏み切った通貨増産計画だ。安上がりのお金を民間で作らせてはどうかという蔭の声がきかれるのも無理のないところだろう。なぜなら、お金が安く出来れば日銀の財源も少しは浮く。ひいては、われわれ国民の納税負担も軽くなるというわけなのだから。(記事終了)
今でも1円を作るのに1円以上かかるわけですし、昔よりコストが上がっているらしい。
そして、一円玉(アルミ)を多量に日本から持ち出している外人がいるとか・・・???・・・
昔も今も、公務員の高額給与は問題になるようです。この厳しい経済状況の現在でも公務員を職としているかたが、給料が上がらなくなったと嘆いていたようですが・・・・・。
2012-11-11記
週刊朝日 1959年11月1日号より
「歩行者絶対優先」を守れ 横断歩道は命がけ

この頃は、車が少なかったはずなのに交通事故は大変多く、歩行者の死者も考えられないくらい多かったようです。
”走る凶器”
秋の交通安全運動が始まったが、歩行者の交通事故は全く多い。今年上半期中に全国では、歩行者の死者二千二百十八人、負傷者三万一千三百十七人となっている。車内の人と違って、歩行者は全く無防備だから、ひっかけられたらたまらない。
歩行者事故で一番多いのは「車の直前直後の横断」である。「踏み切り事故」の死亡者も多い。子供の場合は「車道に飛び出す」「路上遊戯」「幼児のひとり歩き」などが無残な死傷の原因になっている。おとなでは「信号無視」「めいてい歩行」「横断歩道以外の横断」などもある。これらの原因を見ても分かるように、歩行者の交通事故には、歩行者側に責任があることが少なくない。歩行者もムチャな歩き方をせぬよう、運行上の訓練をする必要は大いにある。
しかし、歩行者が車をはね飛ばすことはできない。歩行者は加害者にはなれない。力道山だってダメだ。加害者は車で、歩行者は被害者である。
警視庁や警察庁の交通事故白書を見ても、スピード違反、安全速度の不履行、追い越し不注意、居眠り運転、わき見運転、一時停車違反、右折左折不注意、前照灯ゲン惑などが相変わらず多く、おまけに酔っぱらい運転や無免許運転まで横行してるのだから、歩行者はまるで”走る凶器”の狂奔する中を泳いでいるようなものだ。
神風タクシーの恐怖は世界に名をあげたが、日本の交通でいちばん無視されているのは「歩行者優先」だ。欧米でも、ソ連でも歩行者優先はよく守られている。いわゆるゼブラ・ゾーン=シマ馬のように黄色と白でシマに染め分けられている横断歩道に、いやしくも人影がみとめられれば、車は絶対に止まらねばならぬ。歩行者の横断中に車がその地帯に十センチでも乗り入れたら、厳罰に処される。だからアチラの都市では、歩行者は自身をもってゆうゆうと、急がずに横断する。
死と生のスキ間
ところが日本ではどうだ。車は平気で横断歩道に突っ込んでくる。歩行者はいつもビクビクもので車に追い回されている。横断歩道でさえ命がけである。横断歩道上にタクシーやトラックが一ぱい乱雑に停車していることが多い。その狭いクレバスに両側から人並みが殺到するのだから、全部が渡りきれるものでない。・・・・・
・・・・
読んでいると、現在の方がもちろん道路や歩道が整備されていて、その分グンと事故死者も減っているのですが、まだまだ車と歩行者の戦争は、自転車も巻き込んでの戦いになっているようです。特に、自転車の傍若無人ぶりにはあきれはててしまいます。それこそ自転車のナンバー制も必要なのではないかと考えます。2012-07-20記
1957 1958 1959 1960 1961
(青い文字は、雑誌本文記事です)