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1965年(昭和40年)の出来事について

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サンデー毎日 1965年1月31日号より
三人娘セパレート作戦の渡辺プロ

渡辺プロが一九六五年の目標として三人娘セパレート作戦をうち出した。いままでトリオで売ってきた中尾ミエ・伊東ゆかり・園まりの三人娘を、それぞれ一人だちの歌手として大型化しようというわけだ。昨年クレージー・キャッツのセパレート作戦に大成功をおさめた植木等・ハナ肇・谷啓の三人を主演ドラマのとれる大ものに育てあげた渡辺プロの、新戦術である。
私の高校時代、たしかにこの三人の歌の歌い分けは、ありました。こういう事情があったわけですね。
実際は園まりが一番うれていたような記憶があります。まだまだ一枚300円くらいしたレコードが買える身分では無かったので、ほとんどがラジオからの歌の知識でありました。
ことし十八才でビクター・レコードと契約している中尾ミエ。彼女はうたわない役で、いままでも映画やテレビ・ドラマで好演しているドラマチックな才能をのばして、本格的ミュージカル・タレントを目ざす。
最年少の十七才でキング・レコード専属の伊東ゆかり。一月下旬に日本人歌手でただ一人サンレモの音楽祭に参加する。ここでうたう歌謡曲「愛はすぐそこに」のヒットをみこんで、彼女はカンツォーネやジャズ・ポピュラーのオーソドックスな歌手としておし出す。
カンツォーネといえば、サンレモ音楽祭、ボビー・ソロ、ジリオラ・チンクエッティ等日本でもかなりヒットしたイタリアの歌です。今では全く歌われることも無くCDを探してもヨーロッパ音楽の片隅でゆっくり眠っています。
最年長二十才の園まりはポリドール・レコード専属。おとなしい歌をじっくりとうたいこめる個性を生かして、彼女はオリジナルのしゃれた歌謡曲歌手にする、といったぐあい。
年齢的にも、ちょっとむずかしいところにさしかかりつつある三人娘を、それぞれの性格に応じて独立させようというこの作戦が成功すれば、ことしの芸能界地図はおもしろい変化をおこしそうである。
梓みちよと田辺靖雄の二人を大きく売り出したとはいえ、一九六四年の渡辺プロは、ズブの新人からは大ものを発掘できなかった。そこで年頭にあたって全社員を集め、渡辺美佐副社長は、新人タレントの発見と売り出しかたを、強く要請した。子飼いタレントの成長と新人タレントの不足という局面を迎えた渡辺プロにとって、三人娘セパレート作戦は、重要なことしの課題である。
伊東ゆかりはカバーポップス系がややすたれていく頃に歌っていたし、中尾ミエは芝居がかっていたという気がします。
記憶に残っているのは園まりの曲がよく流行っていたということです。「夢は夜ひらく」「逢いたくて逢いたくて」「愛は惜しみなく」・・・等どっとヒット曲が連続してありました。
三人娘分割というよりは、園まりの一人勝ちだったのではないかと今思います。
現代のAKBでもこういう売り出しの分割手法は常套手段であるようです。結果、生き残る者、敗れ去る者と、これから将来30年40年先に、ああ懐かしいと思い出される歌手ってどれくらいいるのでしょうか。
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2013-04-28記
サンデー毎日 1965年1月31日号より

Music MONTHLY 1965年3月号よりnew
全国のレコード店が選んだ今月のベスト・セラーズ


邦楽
順位

01.
02.
03.
04.
05.
06.
07.
08.
09.
10.
11.
12.
13.
14.
15.
16.
17.
18.
19.
20.

曲名

お座敷小唄

夜明けのうた
アンコ椿は恋の花
チェッ、チェッ、チェッ
愛と死を見つめて
何も云わないで
大阪ぐらし
サン・トワ・マミー
俺はお前に弱いんだ
リンデンバウムの歌
東京の灯よいつまでも
砂に消えた涙
まつのき小唄
自動車ショーの歌
恋をするなら
男坂
ウナ・セラ・ディ東京
我が青春
花咲く乙女たち

歌手

和田弘とマヒナスターズ
美空ひばり
岸洋子
都はるみ
橋幸夫
青山和子
園まり
フランク永井
越路吹雪
石原裕次郎
梓みちよ
新川二郎
弘田三枝子
二宮ゆき子
小林旭
橋幸夫
井沢八郎
和田弘とマヒナスターズ
西郷輝彦
舟木一夫

このMusic MONTHLYという小冊子は、当時レコード店で配られていた(売られていた)ものだったのでしょうか。
レコードの紹介とその月発売されたレコード一覧が表として載っています。
この冊子を手に入れたいきさつはというと、
商店街を見回していたら、古道具屋さんの店先に、「ご自由にお持ち帰り下さい」というコーナーの中にこの冊子、1963年から1966年の何冊かが置かれていたのでお店のかたに断って冊子を全部もらいました。中学生だった頃のレコード事情が書かれているので懐かしくて、涙が出るほどでした。
平凡パンチ 1965年3月8日号より
話題のレコード 「ビートルズ ’65」(OP7179)


いうまでもなくビートルズの最新吹きこみである。「ビートルズ’65」(オデオン・ステレオ30センチLP千八百円=日本では東芝音楽工業発売)とは、1965年のビートルズ、といった意味。このグループは、さきにソロをよく歌うリンゴ・スターの結婚、さらにそれよりちょっと前には、同じくリンゴ・スターの死亡説などが流布されてけっこう話題となっている。
今でこそ、伝説のビートルズですが当時は、パンチのような若者雑誌にして、このさめた記述はどうでしょう。「このグループ」とあるところに、それがよく顕れていると思います。 基本的に、ビートルズを知らない読者への紹介という感じです。
このレコードは「ノー・リプライ」「アイル・フォロー・ザ・サン」など十四曲の歌を集めてある。注目していいのは「カンサス・シティ」(A面NO7)をはじめ、最近のビートルズは二グロ・ナンバーなども積極的にレパトリーにくわえていることで、ちょうどプレスリーがフォーク・ソングやウエスタンなどをレパトリーに入れて転身を図ったのと一脈相通ずる。(記事終了・原文通り)
中学1年生の冬に、外国で流行っているロックンロールグループということでラジオで聞いて以来好きになったのですが、当時は、歌のタイトルも原題通りのものと意訳して題をつけたものとがあって、英語を習いはじめていた時でしたので、”I'm Cry Instead”というタイトルが日本題で「僕が泣く」となっていて、Oh! insteadが 「・・が・・」になっている、アイム・クライ・インステッドと違うんだ・・・何故か感激したものです。
そういうビートルズ初期のころの記事でした。
大学時代のビートルズ好きの先輩は、ビートルズはイギリスの演歌だ。藤圭子と同じだとか言っていました。藤圭子は平成のうただちゃんより人口に膾炙していました。
2012-09-22記
平凡パンチ 1965年3月8日号より
前田美波里

2012-09-22画像加える

この号の、中央のモノクログラビアは、前田美波里特集です。まだ、たしか化粧品メーカーのポスターになる前だったとおもいます。
今年こそミュージカルの年だといわれています。
「ミュージカルをやりたい」
「ミュージカルを観たい」という声がようやく”本物”へ一歩近づいたという感じです。
・・・
彼女こそ日本のミュージカル界が待ち望んでいた貴重なタレントなのです。
ボクが初めて彼女に会ったのは昨年の五月「ノー・ストリングス」の公演に先駆けて行われた「ミス・ノー・ストリングス」の審査会の時でした。
第一印象は”男のコみたいな女のコだな”ということそれにすばらしい肢体から受ける感じも”ハタチ過ぎかな”と思ったことを覚えています。
ところが、まだ十五歳と聞いてビックリ 彼女が混血だということが解ってようやく自分を納得させたものでした。
・・・(高島忠雄・文)
このころはミュージカルスターを夢見る少女だったわけなんですね。それが、ポスターからマイク真木とのであいとか、運命はなかなかわからないものです。
ここでの写真からは本当に15歳ということがウソのような肢体と顔つきです。どうみても、成人しています。このページのトップへ移動
週刊新潮 1965年11月6日号より
束で売られるマヌカン嬢たち ・・夜をいろどるお色気・・

初期の11PMは、ウィキなどで見てみても、ほとんど書かれていません。ビデオが残っていないのかも知れません。この、新潮のS40年の号に11PMが開始されるという記事がありました。私が、中学校の時です。見る事もなかったのかもしれません。
「ナイトクラブのフンイキをニュースとともにお茶の間におくる」というわけで11月8日から”ミッドナイト・ニュース・ショー”「11PM」(NTV月・金午後11時)が、スタートする。ここで大いにお色気で勝負しようと売りに出たのが名づけて”11PMガールズ”と称するマヌカン嬢6人だ。
・・・・
女性6人にバニーガールまがいのスタイルをさせて、大いにナイトクラブのムードを盛り上げてもらおうというもの。
毛なみも、純日本種、日米混血種、台湾種とさまざまで、6人の平均サイズはバスト83、ウエスト55、ヒップ88、身長165で、平均年齢19歳。いずれも前身はファッションモデルだったりだという。
歌も踊りもできるわけでないし、もちろん演技とておぼつかないが、「次はコント」などというカードをヒョイとヒップの上にのせてみせたりするのが彼女たちのお役目だそうだ。

バニーの格好といえば、最近、夏場には繁華街を歩いているような格好ですが、当時はそれでもお父さんがたは胸がドキドキものであったのでしょう。まだ私の家では白黒テレビでしたし、万一私が起きていて見ていたとしてもそうそうワクワクするものでなかったのでしょう。
しかし、年を追ってどんどん裸のほうはエスカレートしてきたのでしょうが、いつだったかはわすれましたが、全裸の女性が出演者の肩にまたがってるようなアングルで三角地帯を隠すようにしてTVが流れていたのを覚えています。
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週刊新潮 1965年11月6日号より
”無銭遊興”したアン・マーグレット

ハリウッド女優アン・マーグレットは、さる十月十八日の夜、羽田着で来日、二十日夜あわただしく帰国したが、わざわざ大金のギャラ(一日二千ドル--約七十二万円といわれる)を支払って映画「しんしなてぃ・キッド」の宣伝の提灯もちをさせようと、約一週間分のスケジュールをびっしり組み、手ぐすねひいて待ち受けていたメトロ映画の日本支社宣伝部は、まず「スター千一夜」「アフタヌーンショー」「婦人ニュース」など、出演をきたいされたTV番組のすべてを「アメリカでの契約に違反する」という理由でキャンセルされ、出鼻をくじかれてしまった。
このころといえば、ハリウッド俳優、女優、歌手そのた外国人タレントさんが来てくれると言えば大騒ぎ。上げ膳据え膳でのおもてなしで、それはそれは外国人さんにとっては美味しい国日本であったと思います。
帝国ホテルでの記者会見も、多くの記者たちがもっと聞きたがっていたロジャー・スミス(テレビ映画「サンセット77」でおなじみの俳優で妻子がある)との婚約説も「向こう五年間結婚はいたしません。それ以上はノー・コメント」と、木でハナをくくったようで座をしらけさせた。加えて、かんじんの出演映画の封切日十数日後で、宣伝のハイライトであるべきはずの舞台アイサツもできず、なんのために来たのかわからないような始末。
宣伝効果がなかったケースとしては、過去にアラン・ドロン(「泥棒を消せ」)、カトリーヌ・スパーク(「太陽の下の十八歳」)という例があるが、こんどのアン・マーグレットの場合は「来てくれないよりましだが、あまりプラスになったとは思えぬ」という劇場関係者の声もあり、よろこんだのは全費用”向こう持ち”で三日間の日本旅行を楽しんで帰ったアン・マーグレットだけということになりそう。
現在でも外国人タレントを、どれだけ歓待するんだという気がします。テレビでよく記者が5分間お時間をいただきましたとかやっているのですが、へりくだりすぎ。
そんなにわずかしか会ってもらえないんだったら、日本人が嫌いなんだろうと思います。インタビューもやめてしまえばと・・・・。
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2013-10-30記
週刊新潮 1965年11月6日号より

週刊読売 1965年11月21日号より
正月映画の裏で泣く女優たち

このころの私の女優のイメージは綺麗なかたというイメージです。それほど映画を見たわけでもないし私もまだ中学生でしたから熱狂的なファンですという女優さんはいませんでした。
映画の世界は”男臭さ”がいっぱい。
映画五社が、ぼつぼつ制作を始めた正月映画をみても、女優さんは、ほんのちょっとしたお相手役か、”サシミのツマ”といった役どころが多い。カレンダー以外には、演技する女優さんはお呼びでない、のだろうか

そういうふうだったのでしょうか。正月映画といえば、東宝、怪獣、ゴジラと覚えています。そして友人と、天王寺まで見に行きました。
そして、五社の正月映画の予定表が載っていました。(昭和41年新春番組ということです)
映画会社
松竹




東宝






大映






東映




日活



上映期間
1〜14日

15〜26日


  〜3日
3日〜






  〜2日

  〜14日

  〜26日

  〜14日

  〜26日


  〜14日

  〜26日

題  名
望郷と掟
赤い鷹
暖春
五匹の紳士

怪獣大戦争
エレキの若大将
未定・社長行状記
  無責任清水港
  暴れ豪右衛門
  駅前弁天

座頭市地獄旅
鉄砲犬
新・兵隊やくざ
若親分喧嘩状
刺青
破れ証文

網走番外地北海禍
関東果たし状
花と竜・完結編
昭和残侠伝・唐獅子牡丹

日本の恋人たち
赤い谷間の決闘
源氏物語
河内カルメン
主  演
安藤昇
橋幸夫・倍賞千恵子
岩下志麻
仲代達也

宝田明・水野久美
加山雄三・星由里子
森繁久弥
植木等
三船敏郎
森繁久弥

勝新太郎
田宮二郎
勝新太郎
市川雷蔵
若尾文子
本郷功次郎

高倉健
鶴田浩二
中村錦之助
高倉健・三田佳子

吉永小百合
石原裕次郎
片岡孝雄
野川由美子・小沢昭一
こう見ると、非常に豪華です。今ならDVDで、バンバン見るぞという映画ばかりです。学生のころ、先輩が昭和残侠伝や網走番外地にはまってしまって、なりきり高倉健であったことを思い出します。私も、その先輩と一緒に京都の隅の3本立てを見に行ったようなことがあります。
そして、上記の表をみると、やはり女優さんの出る幕はなかなかなさそうな感じです。女優映画で、観客を引きつけるということは難しい頃であったのでしょうか?
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週刊現代 1965年11月25日号より
天皇賞レースの焦点と穴馬券

前年から引き続き三冠馬のシンザンが圧倒的な強さでした。私は馬には全く興味が無かったのですが、両親とも競馬ファンでテレビでいつもみていました。今でもそのようなのですが。それで、強い馬というのは親の口からいやというほど聴かされていました。シンザンもまたその中のというか一番の馬でした。
一番人気、三冠馬シンザンが制覇か
こうしてみると今回は三冠馬のシンザンの優勝は確実のようである。
先日行われたトライアルの、目黒記念でみせたシンザンの強さはまったくすばらしかった。六十三キロの最高ハンデで、直線でせりかけてきたブルタカチホ(五十九キロ)を馬なり(馬の気分にまかせて騎手は追わない)で軽く1/2馬身ひきはなして1分42秒2で勝った。
ジンクス通りなら、ブルタカチホに勝つ番がまわってくるわけだが、今回はこの4キロ差のハンデがともに定量の58キロになるのだから、シンザンにとってはまさに”鬼に金棒”である。
ちなみに出走馬のハンデは牡58キロ、牝56キロの定量制。したがってハンデキャップレースではないので、より一層波乱の余地がないわけである。こうみてくると単勝はおそらく百五十円台ではなかろうか。
シンザンはたしか30歳以上の長生き馬だったと思うのですが、死んだ時にはちょっと昔を思い出しました。
これまで、馬券は買った事がないですが今ですと、あの「ディープインパクト」に置き換えられるのでしょうか。馬の違い、回りの馬の違いは別として・・・
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平凡パンチ 1965年11月29日号より
どこまでつづく ”エレキブーム”

==問題になった神社での”盗電練習”==
各地のエレキ禁止令もものかは、ますますブームは高まるいっぽうだが、これをうらづけるエレキの話題を二つ紹介しよう
京都で神社の防犯燈にソケットをさしこみ、エレキの練習をしていたグループが”盗電”ということで問題になっている。
”犯人”たちが京都市北区の上賀茂神社でエレキの演奏をはじめたのは二か月ほどまえ。日曜日は午後、平日は午後七時から夜おそくまで演奏をつづけていた。「やかましくて夜もねむれない」という近所の人のうったえで、警察は付近のパトロールを強化した。
本当に、エレキギターを使用したグループは沢山いました。私はまだこのとき中学三年生で、学園祭もなく、高校受験に頑張っていた頃でした。テレビでは「勝ち抜きエレキ合戦」やいろいろな番組があったように思います。
このため”犯人”たちは用心して姿をみせなくなったが、警察の調べでは境内の防犯燈の電燈をはずしてコンセントをさしこみ”盗電演奏”していたらしい。
いっぽう、ブームにおくれまいと、ギターをようやく手にいれてハタと困るのがこの練習場。うっかり自宅でやれば近所から苦情が殺到することはまちがいない。
なかには放課後学校の庭で練習していたらパトカーがかけつけたという話もあるくらいで、近くの家から電源をかりて荒川土手で練習するとか、墓場にいってやるとか、みんな練習の場所に苦労しているようだ。
当時、私の学校や家のまわりでこのエレキの音を聞いたことはありませんでしたが、高校に入って軽音楽部の盛況は異常なくらいだったと思います。私は運動部に入部したのですが大したことはなく、やはりギター演奏や軽音は文化祭では花形だったと思います。
そうそう、運動部では、モダンダンス部(今の新体操のような・・・)がやはり体育祭では人気でした。
銀座にエレキ学校誕生
銀座のテスコ株式会社のショールームに「MLエレキ・アンド・ハワイアンスクール」が開校した(連絡先、千代田正神田司町・・・)
もともとこのショールームでは「テスコ音楽教室」を開催してたが、テスコのギターを買った人にサービスすることを目的にしたもの。「ML・・・・」のほうはそのようなメーカーとの提携はない。純粋にエレキギター練習希望者を対象にしたもので、全国でもはじめての試みではないかといわれている。エレキだけでなくハワイアンも教えるとはいえ、開校にふみきったのはいうまでもなく高まるいっぽうのエレキブームが原因だ。
テスコは懐かしい響きです。あと、グヤトーンとかあったような、フェンダー・・・等々。ポール・マッカートニーが弾いているギターがカッコ良かったです。
エレキ科はフランツ・フリーデルとブルーファイアーズの野島美樹など、ハワイアン科はルナハワイアンズの山口軍一などが講師で、個人教室で入学金千円、教授料一か月月二千円。初心者でも三か月で自由に演奏できるまでに指導するというが、すでに希望者が殺到、予想以上の盛況ぶりとのことだ。
こういう学校がなりたたない地域では高校の軽音部がこのエレキギター教室の役目をしていたように思います。我が校でもまた他校の文化祭でも軽音部はにぎやかでありました。そして私も実は高校時代にフォークギターを買いました。
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2012-09-17記
Music MONTHLY 1965年12月号よりnew
全国のレコード店が選んだ今月のベスト・セラーズ

□今年のポピュラーのLPは大別してエレキ・ギターとミュージカルのブームに終始したといってもよいでしょう。ヴェンチャーズの功績は大変なもので、これに刺激されて世界各国のエレキ・グループが来日し、レコードでも公演でもはなばなしいエレキ合戦が展開されました。
一方「ウエスト・サイド物語」に端を発し、「マイ・フェア・レディ」「サウンド・オブ・ミュージック」とつぎつぎに名作が登場して、ミュージカルでも史上初めての活況を呈しました。そのほかは来日したアーティストが強く、ブラザース・フォー、ブレンダ・リー、コニー・フランシスらが快調です。フォークの人気も全国的に高まり、なかでもジョーン・バエズは完全に根強いファンを獲得しました。シングルでは女性歌手が圧倒的に強く光彩をはなっていますが、最近ぐんぐんピッチを上げてきたジョニー・ティロットソンが不況の男性歌手の中でひとり頑張っているのが目立ちます。
□歌謡曲は説明するまでもなく、舟木の「高原の・・・」が飛躍的にヒットをとばし、倍賞の「さよなら・・・」もこれに負けず迫っています。梶光夫もようやく世に認められてきました。

洋楽ポピュラー(45)
順位

01.
02.
03.
04.
05.
06.
07.
08.
09.
10.
11.
12.
13.
14.
15.
16.
17.
18.
19.
20.

曲名

夢見るシャンソン人形
クルーエル・シー
夜霧のしのび逢い
キャラヴァン
夜空のトランペット
ヘルプ
涙くんさようなら
悲しき願い
夢見るシャンソン人形
ドレミの歌
明日を忘れて
涙の太陽
ディジー・ミス・リジー
若さをつかもう
霧のカレリア
真珠貝の歌
ダイヤモンド・ヘッド
スウィンギン・クリーパー
星空の彼方に
やさしくしてね

歌手

フランス・ギャル
ザ・ヴェンチャーズ
サン・トラ盤
ザ・ヴェンチャーズ
ニニ・ロッソ
ビートルズ(サン・トラ盤)
ジョニー・ティロットソン
ジ・アニマルズ
フランス・ギャル(日本語)
ジュリー・アンドリュース(サン・トラ盤)
コニー・フランシス
エミー・ジャクソン
ザ・ビートルズ
デイヴ・クラーク・ファイヴ
ザ・スプートニクス
ビリー・ヴォーン楽団
ザ・ヴェンチャーズ
ザ・ヴェンチャーズ
ザ・シャンティーズ
パティ・デューク

この頃はエレキブームが沸き起こっていてヴェンチャーズがビートルズをけちらしていたような記憶があります。1966年にビートルズがなんとか初来日でやや持ち直したと思いますが、それも東京一夜限りだったような・・・
日本でも最近(2010年代)は海外にならって「ビートルズ=神」状態なわけですが、当時を知っている者とすると、なんだかなという気はします。もちろん当時(1965年)高校生以上のかたにとってはまた違っていたのかもしれません。
あと1960年代は、洋楽でヒットするとかならずその歌手が現地語と日本語で歌ってくれていたような、・・・。
レディー・ガガやアリアナ・グランデがいかに日本びいきといっても、日本語で自身の曲をうたってくれるというようなことはまず無いでしょう。
1963 1964 1965 1966 1967
(青い文字は、雑誌本文記事です)
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昭和の時代を見るために参考になる図書を紹介します 昭和の雑誌を主に載せています。男性誌が多いです 平成の雑誌を主に載せています。男性誌が多いです 10年ごとの年代の年表です

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