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1966年(昭和41年)の出来事について

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平凡パンチ 1966年1月3日号より
ウィークリー・ヒッツ

左側の番号は先週の順位。右側の番号は今週の順位。
ポピュラー
1 (1)Turn! Turn! Turn! (バーズ)
2 (2)I Hear A Symphony (シュープリームス)
4 (3)Let's Hang On (4シーズンズ)
5 (4)I Got You (ジェームズ・ブラウン)
10(5)Over And Over (デーブ・クラーク)
9 (6)I Can Never Go Home Any More (シャングリラス)
3 (7)1-2-3 (レン・バリー)
7 (8)A Taste Of Honey (ハーブ・アルパートとチュアナ・ブラス)
6 (9)Rescue Me (フォンテラ・バス)
13(10)I Will (ディーン・マーティン)
21(11)Hang On Sloopy (ラムシー・ルイス・トリオ)
18(12)England Swings (ロジャー・ミラー)
20(13)Fever (マッコイズ)
17(14)Make The World Go Away (エディー・アーノルド)
11(15)Get Off Of My Cloud (ローリング・ストーンズ)
8 (16)Ain't That Peculiar (マービン・ゲイ)
22(17)I'm A Man (ヤードバーズ)
24(18)Don't Think Twice (ワンダー・フー)
19(19)Something About You (フ・ア・トップス)
12(20)Run, Baby Run (ニュービーツ)
(近着の「ビルボード」誌より)
近着とあるので”The Billboard Book Of TOP 40 HITS”で調べて見ましたら、The Byrdsは、1965年6月に”Mr. Tambourine Man”大ヒット1位でその次に1位になったのがこの曲で、表は1965年11月6日号でした。
ミスター・タンブリン・マンは聞いたことはあるのですが、ターン・ターン・ターンは知らなかった。日本ではヒットしたのだろうか?
1967年に50位になった以降は、順位には出ていませんでした。
またビートルズがいつもヒットしていたという記憶があるのですが、ここでは20位までに出ていません。こんなものだったのでしょうか?
この年のビートルズの1位は
”Eight Days A Week!”(3月)
”Ticket To Ride”(5月)
”Help!”(8月)
”Yesterday”(10月)
”We Can Work It Out”(12月)
これだけあるのに、6月は賑わしていなかったわけです。
そして、この週の中で「ああ、知ってる知ってる、聞いたことある」といえるのは、
バーズ、シュープリームス、フォーシーズンズ、デーブ・クラーク、シャングリラス、ハーブ・アルパートとチュアナ・ブラス、ディーン・マーティン、ローリング・ストーンズ、ヤードバーズ
ということで半分くらいです。メロディーが浮かぶのは実際のところシャングリラスの”家へは帰れない” しかありません。当時非常に好きな曲でした。特に”Don't・・・・”と歌うところがよかった。そして歌詞と台詞と交錯していく感じで、(ほとんどが台詞です)が寂しくて・・・歌謡曲的であったのかもしれません。
ちょっと洋楽に、知ったかぶりをしてみました。実は、ラジオで聞き流していたころで、レコードなどと大それた買い物は出来ませんでした。
2012-09-23記
いつまで、残っているかはわからないですがYoutubeからです。
I CAN NEVER GO HOME ANY MORE

サンデー毎日 1966年1月9日号より
後継者はだれか 70ミリ人物評定

当時、気鋭の評論家による人物評定を、政界、財界、労働、文壇、美術、関西文化人、芸能、純戦後派、女性のジャンルにわけて座談会風に語っています。非常に面白い内容もありますので少しだけ載せてみようと思います。
芸能 映画の三船、テレビの植木
大宅壮一 つぎは芸能。やはり三船敏郎なんか・・・。演出のほうでは黒沢明。芝居のほうでは団十郎が死んで・・・。
飯沢匡 歌右衛門でしょう。
今日出海 歌舞伎界の大御所かどうかは知らないけれども、うまいというのは歌右衛門しかいないでしょうし。
飯沢 最後の歌舞伎俳優じゃないですか。歌舞伎俳優は肉体ですから・・・。その肉体をもっているのは、彼じゃないですか。染五郎は足が長くて浮世絵的プロポーションではないですよ。でも勘三郎、松緑、三津五郎のいるあいだは楽しめますよ。
今 それにやっぱり、団十郎は魅力だったな。これが死んだら、ああいう跡継ぎないね。役者にしたいような男、いないもんな。それはもう佐藤栄作くらいだな。(笑)
大宅 佐藤をこっちへまわしたら。(笑)しかし、国民投票とか人気投票とかいう形にしたら?
三鬼陽之助 やはり三船敏郎とか森繁久弥とかね。
飯沢 もう森繁の時代じゃないでしょう。むしろ、植木等ですよ。三船だって映画の人でしょう。大衆ということをいいだしたら、なんといってもテレビでしょう。テレビでは、植木を中心とした「クレージー・キャッツ」がおもしろいですね。でも、テレビは交代が激しい。高橋(幸治)信長もその例です。
大宅 ギャラの点では三船が断然高いそうだね。
飯沢 薬の広告収入が年間四千万円。
大宅 そういう点からいくと三船が断然ですね。あと、仲代達矢なんか落ちるでしょう。
飯沢 そうすれば美空ひばりですよ。こんどもレコード大賞。いろんなことがあっても、まだ人気が続いているというのは・・・。
今 その魅力。なんにもぼくら感じないんだ。
飯沢 つまり、インテリは浪花節をけいべつするんでしょう。実は歌謡曲の根底は全部浪花節なんですね。
大宅 日本的なセンチメンタルの最大公約数。
飯沢 これはまだまだ強いと思いますね。それの一ばん浪花節的なものを上手にうたっているのが、美空ひばりということになるんです。
今 大衆の人気は衰えないね。
飯沢 つまり、今さんの一ばんきらいなあたらいが一ばんいいとこです。(笑)ぼくはあれがこども歌手で出てきたときに、なんとかしてマッ殺しようと思いましてね。さかんにやったんですが、負けました。
藤原弘達 美空ひばりでいこうよ。これはいいよ。(笑)
飯沢 ひばりの跡目を継ぐものは橋幸夫。対抗馬は三波春夫と村田英雄ですね。
今 対抗馬はおかしい。けれども、黒沢なんか、やっぱり映画界では一ばん圧倒しているんじゃないかな。
飯沢 「東京オリンピック」の市川崑の成績が上がっていますね。映画は国際的評価をえないとダメです。
大宅 そうすると、芸能界は天皇がたくさんいることになるね。
今 天皇でないと一座をもてないんだよ。進歩的新劇団まで天皇制だな。
飯沢 滝沢(修)天皇がいますね。その跡を継ぐのは宇野重吉でしょう。いろんな意味で新劇界の一方の実力者になりつつあります。それから芥川比呂志。杉村春子は女帝だな。そのあとは岸田今日子かな。南美江もぐんぐん出てきていますね。新派の水谷八重子にもヒットをとばしてもらいたいところだ。
三鬼 川口松太郎は?
飯沢 そういうことになると、菊田一夫も出てくる。
大宅 二、三位に対する距離という点に重点をおかなければいけない。
飯沢 つぎに出てくるんだったら植木でしょう。ようするにチャッカリしたこのごろの会社員の代表ですね。源氏鶏太の会社員ものは森繁が代表した。植木はちょっとドライに変わって、平気でゴマをすって出世していくという、そういうイメージにぴったりですね。
喧々囂々というわけではないでしょうが、井戸端会議風な、評論家の話はおもしろいですね。いろいろなジャンルの話し合いの結果が、今21世紀から見て、どうなのかなと思って読んでいきましたが、ある意味当たってる箇所が多くて、なぜか新鮮な評論になっているのですね。
週刊朝日 1966年2月11日号より
10代の”白鳥”四羽

私は、バレエは全く分からないのですが、この号のモノクログラビアで森下洋子という名があったのでちょっと載せて見ようと思いました。
森下洋子(17)
1月28日から3日間、東京・大手町の産経ホールで開かれた牧阿佐美バレエ団1月定期公演で、「白鳥の湖」の王女オデットを4人の”10代プリマ”が交代で演じて話題をまいた。森下洋子は、これが4回目の主演で、テクニカルな踊り手として定評がある。

森下洋子
川口ゆり子(15)
4人の育ての親は、橘バレエ学校の橘秋子校長。稽古がきびしいうえに、若いバレリーナたちの精神修養のため、毎冬、寒中に多岐にうたれての水ごりをやったり、座禅を組ませたりのスパルタ教育で有名。川口ゆり子だけが”橘学校”へは”中途入学”である。
武者小路有紀子(15)
川口ゆり子以外の3人は、いずれも4歳ごろから橘イズムの訓練をうけた。橘さんは「バレエ技術の点ではりっぱにおとなを上回ることができます」という。武者小路有紀子は、作家武者小路実篤氏のお孫さん、そのおおらかな体で、ドラマ性豊かな踊りをみせた。

武者小路有紀子    川口ゆり子
靭啓子(16)
橘さんの4人のプリマに対する寸評は−−−森下の驚くべきうまさ、靭の軽妙、武者小路の典雅、そして川口の根性−−−。靭啓子は昨年の1月にも同じ役をやっているが、天性柔軟な美しい体がますます成長して、今回も優雅な踊りを展開した。

靭啓子
当時私と同年代の方たちですが、もちろん全く知りませんでした。ただ、私の高校にもオペラをやっている人がいたりしたので、もう少し趣味を広げていたら知っていたのかもしれません。
ヤング4人による連夜の「白鳥の湖」の思い出に詳しく書かれています。このページのトップへ移動
20081119記
平凡パンチ 1966年2月21日号より
これが日産ナゾの新車だ

テストコースでとらえた覆面カー”SUNNY”?のベールをはぐ
大々的な車名募集と大衆乗用車市場進出キャンペーンで、国産車最大の話題と反響を呼んだ日産の新しい1000cc車は、いよいよ2月19日そのベールを脱ぐことになった。東京都体育館における車名発表と新車紹介をまえに、本誌特別調査のデータによって、その予想車名、性能、スタイルをズバリ予想してみた。

66年はまだ家にはクルマの影もなかった時代ですからこのようなキャンペーンが行われたという記憶はありません。実際TVなどでおぼえているは、日産チェリーのキャンペーンをよくやっていたとか、セリカのチョイス仕様を宣伝していたとかそんなものです。
本命はサニー、対抗がチェリー
応募されたニックネームは朝海浩一郎、芥川也寸志、梓みちよ、池内淳子、市村羽左衛門、曽野綾子、林美智子、小島功の各氏と川又社長の手で審査されている。
数が数だけにさまざまな名前が寄せられたが、もっとも多かったのがポニーだという。午年にちなんだ子馬のイメージだ。これについては、サニー、フジ、エリカー、フォーチュン、ユニバース、チェリー、さくら、フレンド、ピーター、エクセル、メイト、セイバー、ダットサン・ミニ、などが多かったニックネーム。

うーん、チェリーという名もこの頃に取りざたされていたんですね。大学に行った頃には、あこがれがスカイラインGTつぎにブルーバードSSSとなっていてトヨタ2000GTは別格でしたが日産の方が私の周りでは人気があったようです。
平凡パンチ 1966年5月9日号より
ビートルズは特異現象だ
ローリング・ストーンズの見方

イギリスの人気ビート・グループ、ザ・ローリング・ストーンズの躍進ぶりというものは、このところ、まったく目ざましい。昨年、「サティスッファクション」が、全米ヒット・パレードのトップに上がり、さらに売上げ百万枚を突破して、輝く”ゴールドレコード”を獲得してからというもの、まさに順風満帆そのもの。ヒットにつぐヒット、ベスト・セラーにつぐベスト・セラーをつづけている。
「サティスファクション」につづいて、「一人ぽっちの世界」が、全米トップ・ソングとなり、LPでは「アウト・オブ・アワー・ヘッズ」、「ディセンバーズ・チルドレン」の二枚が、売上げ高百万ドルを越え、RIAA公認のゴールドLPとなっている。
このころ私は、ビートルズはよく聞いたのですが、ローリング・ストーンズはあまり聞かなかった(あまり記憶とどめなかった)ようです。もちろん大ヒットした「サティスファクション」は、ラジオからよく流れていたのを懐かしく思い出します。それでも、ビートルズに比べると少なかったと考えます。
さらに四月には、最新のシングル「十九回目の神経衰弱」が、宿敵ビートルズの「ノーホヘア・マン」の進出を押さえて、全米ヒット・パレードの第二位に上がっている。
最近の海外公演は、いずれも大成功。とくにパリ公演では、出演したオランピア劇場の椅子の破損数五十、負傷した警官数十一人、総検挙者数七十五人という暴動騒ぎに近い、熱狂的な大歓迎をうけている。
ビートルズが受けなかったパリで、これほどの大歓迎を受けたのだから、アメリカでの大ヒットぶりを合わせ考えると、ローリング・ストーンズは名実ともにビートルズのライバル、もしくはそれ以上の人気グループとしてぐっとのし上がってきたという印象もうけないでもない。肝心のローリングストーンズは、現在の彼らの位置をどのように見ているか、ご意見をご紹介する。語るのは、ブライアン・ジョーンズ。
「ぼくたちは、「十九回目の神経衰弱」では、ビートルズの「ノーホヘア・マン」をしのぎ、ヒット・パレードではビートルズを押さえた。しかし、それだからといって、ぼくたちがビートルズよりも大きくなったなんてことは、夢にも思っちゃいない。それに「ノーホヘア・マン」は正確にいうと、シングルではない。だから、ぼくたちは、ちょっとしたヒットをだしたというところだ」
と、いたって控え目。さらにローリング・ストーンズが、アメリカではビートルズ以上の人気グループになる可能性については、
「ビートルズというのは、フェノメノン(特異現象)であるということを認識しなくてはいけない。たしかに、ぼくたちは、ヒット・パレードでは彼らを押さえたけれど、それは現在のストーンズが、ビートルズよりも個性を強くだしているからだ。シェア・スタジアムを超満員にするような立派なことをやってのけなくては、ビートルズ同様の人気があるとはいえない。そういってはなんだけれど、ビートルズにしても、今後うまくゆくかどうかは疑わしい」
このように語っている。
さて、ビートルズは、八月十二日、シカゴでの公演を皮切りにアメリカ巡業をはじめ、二十三日にはふたたびニューヨークのシェア・スタジアムに出演する。昨年同様、超満員五万六千人のファン動員に成功するかどうか?八月までのお楽しみ。〔福田一郎〕(記事終了)
ビートルズも二人亡くなり、四人がそろうことは勿論絶対にないのですが、当時の演奏を今(2012年)やってくれたらと思い・・・、ロンドン五輪のポール・マッカートニーを見ていると老いたなあと思うことしきりでした。私自身も同様に老いているわけなのですが、みていて痛々しい感じもありました。
それと同様にローリング・ストーンズもいまだに活躍しているのですがその実はご老体の集まりです。私としては、やはり若々しかった頃のほうが良いと思います。
デビューからあっという間の50年。懐かしさというのは、現在の歌手や俳優をみてもあまり思い起こさず、彼らの当時の記事や残っている映像を見て思い出されるものだと感じています。
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2012-12-13記
平凡パンチ1966年5月9日号より
平凡パンチ 1966年7月25日号より
第二のビートルズ登場?
すご腕プロデューサーの極秘作戦

ビートルズの大売り出しに、一役も、二役も買った二人の実力者が、それぞれスカウトした新人グループの売りこみに、もっか、おおわらわという噂である。
その一人は、ネムズ・エンタープライズの社長で、ビートルズのパーソナル・マネジャーでもあるブライアン・エプスタイン。ニューヨークのあるディスコティック・クラブで歌っていたボーカル・インスツルメンタル・グループをスカウトして、売りこみ中。
「ぼくは、自分で感心したり、敬服したりできるタレントだけを売り込むという方針で・・・」
という、彼の信条にドンピシャのたれんとだったようで、ブライアンみずから、The Cyrkle(ザ・サークル)というひねくったつづりの名称を考えだし、ネンペラー・プロの専属第一号として契約した。
このサークルというグループは全く知らないです。聴いていたのかもしりませんが、覚えていませんでした。
ネンペラー・プロというのは、ブライアンが、アメリカ人のある弁護士とニューヨークに設立したばかりの芸能プロで、アメリカのタレントだけをあつかうという。したがって、専属第一号ザ・サークルの活躍ぶりいかんが、同社の今後に大きくえいきょうしてくるというわけで、ブライアンの売りこみ作戦は、いたって慎重というわけ。
ところが、サークルのCBSコロンビアのデビュー曲、「レッド・ラバー・ボール」は、大好調のヒット。今週の”ウイークリー・ヒッツ”でもおわかりのように、三位まで上がってきている。全米のトップ・ソングも、夢ではなさそう。
ブライアンの計画によると、八月のビートルズ・アメリカ公演には、サークルを前座に組んで、各地を巡業。秋には、イギリス公演を計画しているという。世界のビートルズをデッチあげた実力者で、マスコミがきりきり舞いさせられた日本でのビートルズ騒ぎも、結局はブライアンにひっかかったという噂がでているほどのすご腕。
やっつけ仕事のような、ビートルズの日本公演と聞いていましたし、実際のところ、私の住んでいるところでは、ビートルズが日本に来るといって盛り上がっている友人は全くいませんでした。もちろん、東京まで高いお金を出してまで聴きに行くということもなかったようです。まあ、当時でもマスコミが「あることないこと」を作って行くのがスターの世界。それが、外国人プロデューサーにいいように踊らされいたのでしょう。
ただ、中学の頃から文通していた東京中野の友人が切符がとれたので見に行きますということでした。しかし、その喜びは普通に映画へ行く感じのようでした。見てきて、どうってことはなかったようでしたし・・・・。
もう一人の実力者は、シド・バーンスタイン。昨年の八月十五日、ニューヨークのシア・スタジアムで、ビートルズの公演を主催、五万六千人のファン動員に成功した興行主、といえば、おわかりいただけるかも。ニューヨーク一のプロモーターといわれるたいへんな顔役。
さて、シドは、ロング・アイランドのp「はしけ」というクラブに出演していた四人組、ザ・ヤング・ラスカルズをすかうとして、マネジャーとなり、さっそく、アトランチック・レコードに売りこんだ。
デビュー曲の「アイ・エイント・ゴナ・イート・マイ・ハート・アウト・エニーモア」は、まずまずのヒットとなり、ついで「グッド・ラビン」が、さる四月末、全米ナンバー・ワン・ヒット・ソングとなって、輝くスター誕生。
なにしろ、らすかるずの新曲の宣伝に、シドは、自分の顔写真を入れての大PRというわけで、これも長年売りこんだ顔と実力のおかげというところ。(福田一郎)(記事終了)
私自身ちょっとしたオールディーズブームになりまして、50年60年代の歌手のCD(洋楽)をアマゾンで探して購入。結構懐かしく聴いています。ザ・サークルとザ・ヤング・ラスカルズも聴いてみようかなと思っています。
2013-02-19記
平凡パンチ1966年7月25日号より
平凡パンチ 1966年8月15日号より
シロウト扱いに怒る報道陣

---”007”鹿児島ロケ評判記---
七月二十九日(金曜日)の「11PM」(日本テレビ)ホストの大橋巨泉氏が、”007”の鹿児島ロケの話題として、
「西日本航空のヘリコプター二機をキャスト、スタッフの運搬用にチャーターしたが、これは定期便の遊覧飛行のもの。当然定期飛行に支障をきたす。遊覧用とはいえ、離島便をもかねる交通機関だけに、社会的にどんなものか」
と、ひかえ目ながら、ちょっぴり”007ロケ”に批判をもらして注目された。
「007は二度死ぬ」ってあるけれど、「YOU ONLY LIVE TWICE」(二度生きる)じゃないかとか友人と、ちょっぴり習った英語でよく知ったように、ワイワイ話した記憶があります。
それよりも浜美枝が裸(ビキニ水着になるのは裸という話題に入っていたような・・・)になった方がセンセーショナルで英語話せるのであろうかとかショーン・コネリーにだまされるのではとか、まあ下世話ネタを話した高校時代でした。
ロケ隊はいま、指宿市を本拠に坊津町の寒村、秋目部落でロケ中。連日のように各新聞の芸能欄をにぎわせているが、その反面、ロケ隊はなにかと批判の対象になっているようで、大橋氏の発言はその氷山の一角というべきもののようだ。
各新聞の芸能欄とありますが、それほどにぎわせていたのかな?という印象です。スポーツ新聞の芸能欄であったのか当時一般紙にも芸能欄がもうけられていたのか・・・
そのうえ、報道陣の取材にたいするロケ隊の協力ぶりも、日本映画界の常識ではちょっと考えられないほどつめたい。
「撮影スナップをとるため、あるシーンの撮影後、撮影風景を再現してもらって取材したが、取材のために与えられた時間はわずか十五分。それも”取材させてやる”という態度だった」
・・・・・中略・・・・・
ひとことでいえば日本人をなめているというのが、報道陣の感想。
当時の日本で、外国映画の撮影というとまあこんな感じであったのでしょう。
今でもテレビでみていると、日本のテレビが外国人タレントに”貴重な時間”10分いただきましたとかえらくへりくだって、やっているので、今も変わっていないのですね。
宣伝にきた外国人タレントになぜそこまで・・・・
・・・・・中略・・・・・
取材競争が激烈なだけに、このままではロケ隊と取材陣のあいだに不測の事態も起こりかねない、と心配されている。(記事終了)
近ごろは、インターネットで同時配信のように、ロケの報道もあるのですが、昭和の時代は本当に隠密ロケで、海外スタッフが何をしているのかわからないということであったのでしょう。
2012-09-16記
週刊朝日 1966年8月19日号より
「アベック歌合戦」二百回を迎える トニー谷

「あなたのなまえはなんてぇの・・・」と名セリフで始まる、「アベック歌合戦」の司会者トニー谷へインタビューが行われています。
八月二十九日に読売テレビ制作の「アベック歌合戦」(東京は日本テレビ)が二百回記念を迎える。一口に二百回というが、有為転変の激しいテレビ界では、一つの番組が、まるまる4年も続いたというのは、もうそれだけで大変なことである。
その間、番組をダレさせずに保ってきたトニー谷の努力は、いくら高く買っても買いすぎるということはあるまい。
「わたしは、司会者ではない。ボードビリアンだ」というのが、トニーの日ごろの口ぐせだが、「アベック」にでていても、彼は、忠界をつとめているだけという気は、毛頭ないらしい。ボードビリアン、トニー谷の全人格を反映させるつもりでこの番組に体当たりしてきたのだそうだ。
・・・・
さらにトニーにいわせると、ただツイストに乗って踊り歌うだけでなく、そのときどきの流行のリズムをとりいれることも、おさおさ怠りないという。
たとえば、この夏のようにアメリアッチがはやれば、さっそくアメリアッチを織り込むというぐあいである。
・・・・

真剣にこの番組を見てはいなかったですが家族でなんとなく見ていたような気がします。中学校時代ですから夕方は家族団らんでした。
アメリアッチ懐かしいですね。青春歌謡曲でも、このリズムはあったように覚えています。
週刊文春 1966年12月5日号よりnew
朝の茶の間に芳村真理が
フジテレビの「小川宏ショー」に、”深夜型”イメージ濃厚な芳村真理が、出産で引退する木元教子にかわってホステスとしてこの十二月から登場する。
このホステス交代、スポンサーの間では、従来の芳村のイメージから、朝の茶の間には向かないのではないか・・・と心配するむきもあったが、芳村が美人でないこと、一子をもうけながらミッキー・カーチスと離婚、奥さま方に同情されていること、さらに、”マジメ人間”の小川宏をリードできるバイタリティーがあること・・・などが彼女起用の理由らしい。
”美人で無いこと、離婚したこと、子持ちなこと”とえらいいわれようの真理ちゃんですが、ニュースショーに出ていたイメージはありません。私は学校に行っていたわけで見ることもなかったからでしょう。
真理さんと言えば、なんといっても「夜のヒットスタジオ」でありました。
当の本人は「朝の仕事はつらいし、ニュースショーといえば責任を感じるのでちょっと気が重い」といいながらも「女優として大いにプラスになると思う」と、このところ仕事に恵まれないだけにはりきっている。彼女の”出しゃばり”ぶりがうまく生かされれば面白いが・・・・。
よく饒舌、活発な女性というイメージがのこっていて、近ごろTVに出演していたのを見ても、本当に元気ですね。まあ、この頃の年代のかた、男女問わず現在も活躍されている方は多数ですね。
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2013-04-29記
週刊文春1966年12月5日号より
1964 1965 1966 1967 1968
(青い文字は、雑誌本文記事です)
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昭和の時代を見るために参考になる図書を紹介します 昭和の雑誌を主に載せています。男性誌が多いです 平成の雑誌を主に載せています。男性誌が多いです 10年ごとの年代の年表です

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