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1967年(昭和42年)の出来事について

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週刊文春 1967年1月23日号よりnew
週間10大ニュース
 1月 1日 プロボクシング世界バンタム級選手権試合でファイティング原田がジョー・メデルを判定で破り、三度目の防衛
 1月 3日 東京--箱根間大学駅伝で日大チームが5時間34分47秒の大会新で10回目の優勝
 1月 4日 新春3カ日の全国交通事故死者は132人、昨年の同死者数12895人と警察庁発表
 1月 6日 沖縄の米軍凶悪犯罪続出に対し松岡琉球政府主席が「米当局は無警察状態に抜本的対策をたてるよう」抗議
 1月 6日 米海兵隊がベトコン最大拠点のメコン・デルタへの進出作戦開始
 1月 8日 総選挙公示、1月29日の投票日へ向けて一斉に選挙戦スタート
 1月 8日 茨城県議選で議長選をめぐる贈収賄事件の前自民党県議12人立候補中8人が当選、茨城県民の政治意識に批判高まる
 1月 9日 田中彰治被告(63)が病気療養を理由に保釈金1億円で保釈出所
 1月1〜10日 正月の山の遭難続出、死者・行方不明約50人に上る
 1月7〜10日 中国の文化大革命は毛沢東主流派と劉少奇・陶鋳ら反主流派の抗争激化、南京の流血事件など壁新聞報道続く

50年近く前の週間ニュースですが、びっくりするのは交通事故死が1年間で1万人以上ということです。現在では、年間4000人ぐらいですから、それだけ設備等の不備や交通安全意識の欠如や車になれていない歩行者ということがあったのかも知れません。現在よりも保有台数もずっとすくなかったでしょうから・・・
ファイティング原田は試合の度に、必死で減量していた記憶があります。腫れまくった顔で防衛だったのでは・・・そしてこの年藤猛の活躍がありました。 2013-07-16記
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週刊文春 1967年2月27日号より
”お手伝いさん”ブーム
いまやホームドラマ成功のキメ手

テレビドラマの登場人物の職業にも、その時代によって流行があるが、ちかごろ静かなブームをよんでいるのが”お手伝いさん”。
去年の末の「家政婦のミタ」も、お手伝いさんなんですよね。
このブームのエースは、林美智子がお手伝いさんに扮するTBSテレビの「おゆき」で、三〇%近い視聴率をあげている。
フジテレビの昼の帯番組「おしんこさん」もお手伝いさんの物語りだが、この企画にかえたとたん、以前のドラマにくらべて視聴率が倍になったという。
「ミタ」さんブームは、ちょっと変わった家政婦の行動が主で、その回りにいる家族のエピソードがすべて「ミタ」さんにからんでくるのが、どうなるのだろうかという期待で、視聴率があれだけ上昇したのかもしれません。
同じくフジテレビの公開喜劇「なんでも一一〇番」でも、ゲストの大村崑をお手伝いさんに女装させたところ、評判がよい・・・・・などとれいをあげると、お手伝いさんの登場そのものが、テレビドラマ成功のキメ手かのごときありさまであるが、某テレビ局の企画スタッフの一人は、「ホームドラマが流行しているが、もう、ありきたりな肉親の家族じゃ、変化がつけられない。そこでかんがえられたのが、お手伝いさんです。お手伝いさんを出しておけば、その家族の主婦をパートタイマーかなんかで、家の外へ出せる。それだけどらまの世界もひろげられて便利というわけです。もう一つ、お手伝いさん同士の口コミの効果もバカにはできません。われわれテレビ屋にとっちゃ、もっとも大切なお得意さんですから・・・・」と語る。
どうやら、当分のあいだお手伝いさんブームはつづきそうだ。
この当時は普通の家に、お手伝いさんがいるわけは無く、裕福な家庭のちょっと変わった事情を垣間見るのに、良い位置にいるお手伝いさんが重宝されたのでしょう。
それにやはりお手伝いさんのいる家庭への憧れはなんとなくありました。しかし、私の友人の中には、家にお手伝いさんがいるという家は無かったです。2012-11-06記
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週刊文春1967年2月27日号より
平凡パンチ 1967年3月27日号より
ロポポロを熱くさせろ!

それまで原田や海老原といった軽量級のプロボクシングの、どくとくの軽さを打ち破ったのが、藤猛(J・ウェルター級)の豪快な重いパンチでした。当時はもちろんノックアウトの魅力に日本人はとりつかれました。打ち合いで最終回まで、判定というものにはもう私もかなりうんざりしていました。
−チャンピオンに挑む藤猛の作戦−
藤猛(リキ)が、世界J・ウェルター級チャンピオン、サンドロ・ロポポロ(イタリア)に挑戦することがほぼ内定した(四月二十五日 東京・武道館)
ロポポロがWBA(世界ボクシング協会)のルールを無視して、ランク一位のウィリイー・カーター(西ドイツ)の挑戦に応じなかったため、かなりモメたが、けっきょく「こんどのタイトル戦の勝者が六十日以内にウィリー・カーターと防衛戦をやることで落ち着いたようだ。
藤は、”KOキング”の異名のとおり、そのパンチ力は世界でも一級品。それだけに、対ロポポロ戦も「パンチ力をフルに生かすために、こまかなディフェンスに神経を使わない」(タウンゼント・コーチ)作戦だという。
私はボクシング・ファンというほどでもありませんでしたが、当時あの藤のパンチはすごいと、クラスでも話題でした。
いっぽう日本であまり知られざるチャンピオンのロポポロというのはどんな選手だろうか。
かれのプロフィールは千九百三十九年生まれ、ローマ・オリンピック(1960年)ではイタリア代表で二位、翌年三月にプロ入り。アマあがりのボクシングだけに、足を使っての左右のストレートパンチが武器だ。
・・・・
戦績は48戦38勝4敗(13KO)。
・・・・
郡司信夫氏は「いままで藤は、ながいラウンドの試合を経験していないのが心配だが、どこで藤のパンチが爆発するかがカギ」とみているが、パンチ力では藤にブがあるだけに、ロポポロを早いラウンドに”熱く”させることがタイトルにつながることは確かだ。

いやあ、本当に藤猛は強かったですね。ちょっと後で肥えたようだったとおもいますが、とにかくチャンピオンになったあの、「カッテモカブッテモ・・・」は耳に残りました。あれほど熱くボクシングを見たのは、以来ありません。
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週刊文春 1967年3月27日号より
嫁にひかれて松竹まいり?
----先輩と同じ道を歩む篠田・岩下夫妻----

一昨年、松竹の合理化政策で首を切られた篠田正浩監督が、今年の夏、三年ぶりで松竹映画を撮ることになりそうだ。
作品の内容はまだ決まっていないが、岩下志麻主演で篠田監督の独立プロ制作、松竹配給というたてまえ。
篠田といえば、この三月三日、岩下と結婚したばかり。大島渚、吉田喜重といったかんとくとともに、かつては松竹のヌーベルバーグなどといわれたものだが、会社と喧嘩してとび出したところも同じなら、会社の育てた女優と結婚したところも、共通点。
その上、自分の独立プロ作品に、大島が小山明子を、吉田が岡田茉莉子を出演させたように岩下を出演させて、喧嘩別れした古巣の松竹にうるところまで全く同じ道を辿っている。
いわゆる”女性路線”がお家芸の松竹にとっては、女優を獲られてしまってはお家の一大事。「春日和」、「智恵子抄」、「女の一生」など、まだまだ岩下に働いてもらわねばならない松竹としては、篠田作品も、あだやおろそかにはできない、といったところ。
稼ぎのある娘のムコさんは大事にしなければならない、という映画会社の胸算用だが、それにしても、大島、吉田、篠田とよくもまあ、こんなに似た監督を生んだ松竹という会社も、不思議なところである。(記事終了)
今も昔も監督さんは、女優さんに対しては良い位置に居るのが常ということですね。そして、歌手と踊り手、作曲家と歌手、等の関係が、それこそ芸能界での私たちの計り知れない物語というものを形作っているのでしょう。
しかし芸能界全体を大会社であると考えれば社内恋愛、結婚は多数あるというのも常識でしょう。
私が昔学校をでてすぐに入った会社は女性の方が多数の会社でしたので、総務の先輩男性の言うことには、社内の女性には気をつけろ。数字的にはうちの会社の男性の90%は社内結婚だから・・・!
そして、最初の配属さきから2年経って転勤になるまでに、支店で3組の社内結婚がありました。2012-11-28記
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週刊文春1967年3月27日号より
週刊F6セブン 1967年4月8日号より
スター誕生
混血歌手 小畑ミキのデビュー

いわゆるタレントと称する人間は現在約1000人いるといわれている。およそ縁遠くわれわれの聞き及ばぬ無名の者から いまやマスコミの人気絶頂タレントまで あるいは ポイと出たきりはいそれまでよ型の者まで含めての数である。
ここに一人の女性がレコード界からデビューしようとしている。小畑ミキ 16歳 アメリカ人の父と日本人の母を持つ混血女性である。

週刊F6セブン1967年4月8日号より

この小畑ミキは、南沙織を好きになる前の、好きな歌手でした。やはりファンクラブに入ろうとして結局入らなかったのですが・・・。参考書の表紙裏に、彼女の写真を貼っていたこともありました。中学時代は、本間千代子のファンでした。
初吹き込みを2月23日に終えて以来 彼女は全国のレコード店当ての案内状郵送 専属のレコード会社宣伝部や マスコミの挨拶回りなどまさに多忙を極める身となった。
週刊F6セブン1967年4月8日号より

元Sファッション・クラブにいたモデルであった彼女は 趣味で書いていた詩が たまたま作曲家の中村泰士氏に認められ 今度は歌手を本業としてスタートしたのである。
今日も 宣伝写真の撮影 TVのインタビュー そして副業となったファッションの撮影その間を縫って本誌の取材である。
週刊F6セブン1967年4月8日号より

こうして今じっくり見ますと、当時もっと華やかだったと思っていた小畑ミキがどうも、色あせて見えます。これは、”混血”と現代の”ハーフ”タレントとの差なのでしょうか。いやいやそんなわけはないと思うのですが・・・・。
混血タレントの人気性と 作詞(あるいは作曲)ブームの中で誕生する小畑ミキは 自作の歌をひっさげて マスコミの寵児となり そしてスターになるか あるいはスターダストとなってしまうか。それは彼女自身とマスコミが決めるのだ。(写真 本誌特写)2013-05-25記
週刊F6セブン1967年4月8日号より
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宝石 1967年6月号より
勉強不足のD・J番組司会者

音楽が、ポップス、歌謡曲、クラシックと3分類されていたころの話ですが、よくラジオで聴いたのはやはり、歌謡曲・ポップスですが、今のように無理矢理にジャンルを多くしているのは何故とか思うのはもう頭の固定が完全にはじまっています。浜崎も大塚もコブクロも歌謡曲ではあるのですが。
昭和28、9年だったろうか。NHKの職員採用試験に、ディスク・ジョッキーという単語を解説せよ、という問題が出た。ところが、正解者はあまりいなかったという話を、私は人伝てに聞いたことがある。ディスク・ジョッキーという言葉が完全に日本語化した今日から考えると、まるで信じられぬような話である。
・・・・
適当なおしゃべりを入れながら、レコードを聴かせるディスク・ジョッキー番組がいちばん手軽に制作できるし、また若者に受けそうなレコードをかければ聴取率も稼ぎやすいというわけである。
・・・・
まず文句なしに本格派といえるのは、福田一郎氏ぐらいだろうか。音楽雑誌の編集長という本業があるので片手間しかやっていないが、この仕事にもっと精力的にとり組んだらいいと思うのは星加ルミ子さんである。
ことポップスに関するかぎり、このふたりは、常に、実に正確なニュースをキャッチし、その紹介に努力しており、その点で多くのD・Jは、彼と彼女に比べて明らかに勉強不足だと思う。私も、実を言うとD・Jの真似事をしているので、その経験に即して正直に告白するが、情報の収集という点では、このふたりにシャッポをぬがざるを得ないのである。
このあと、高崎一郎のジョーン・バエズの舞台での司会失敗が書いてあります。高校生だった私はラジオをよく聞いていたとは思うのですが、ディスク・ジョッキーへの思い入れは全くなかったです。とにかく情報収集ということでラジオを聴き、新曲をあさっていたのかもしれません。
当時も大阪でしたので、「題名のない番組」をよく聴いたものです。ディスクジョッキーというよりは、世間話+レコードというもので、深夜にもかかわらず本当に良く聴きました。
そして、1970年代を迎えてラジオからTVへ移っていったわけですが、私は聴きも見もしないほうへ移っていったような気がします。
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週刊文春 1967年10月2日号より
動き出した五十嵐勝美

11PMに関しての記事というのは、60年代後半には、結構載っているようですが、いかんせん中学、高校時代でありテレビも1台しか無い時代であったので、見知っているというものはほとんどありません。この文春の記事も、巻頭モノクロページでのカバーガールの記事なわけですが・・・・
11PMのカバーガールとして、動かない微笑を五秒間続けていた五十嵐勝美がテレビをやめて映画に初出演した。”静から動へ”ほんの3カットであったが新玉三千代がかぶとをぬぐ美人という重要な役である。
おりしも御大菊田一夫が彼女の音楽性に目をつけてミュージカル・タレントにという話ももちあがっておりテレビでも昼の女性向き番組のホステスを十月からつとめるという発展ぶり。
芸大の四年間を音楽と寮生活ですごして今でも夜は外出しないという、世間は知らないお嬢さん。
・・・・
押し出されるように芸能界に躍りだしたこの無欲な大物169センチの長身で相手役選びに難渋しそうだが、とりあえず「日本一ミニスカートが似合う」肢体だけでも舞台で見せる値打ちがあろう。
新玉三千代とのカット、監督とのカット、買い物でのカットなど4枚の写真が載せられていますから相当な売出しであったのでしょう。しかし、実のところ私は全く存じあげません。TVで見ていたのかも知れませんが、これもまた、文春の写真からも「見た顔だ」とも思わないのです。残念です。
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週刊サンケイ 1967年10月16日号より
”食品五輪”で気をはいた金メダル菓子

なつかしい、お菓子が載っていました。バターココナッツ。小さい頃よく食べました。シスコイン同様によく食べました。
この夏、日清製菓は”幹部、若干名を求む”という案内広告を出した。ところが集まったのがなんと四百人、一流会社の課長クラスも何人かいたそうだ。
それほどの人が押しかけたのは、なんといってもバターココナツの威力である。ことしの三月六日、ベルギーの首都ブリュッセルで開かれた第五回食品オリンピックで、日清製菓のバターココナツは最優秀品に選ばれ、日清製菓社長、永井猪三郎氏に賞状と金メダルが贈られたのである。
この審査会は正式には「穀類とその副次製品の部門」の審査会。通称”食品オリンピック”といわれている。世界各国の消費者協会の連合会のような組織で、これまでにも日本の製品が金メダルを獲得している。サントリービール、グリコのアーモンドチョコレートなどだ。
この二つにくらべて、日清製菓はいかにも小さい会社である。資本金は一億二千万円
だが、そこから、生まれたバターココナツが世界の栄冠を獲得した。
外国で賞をもらうと日本国内では大々的に報道するというのがこのころは常道でしたが、このバターココナツもそうだったのですか。美味しいお菓子でしたので、おやつにぱりぱりやっていました。もう何十年も食べていないのですが、久しぶりに食べてみようかなという気になりました。
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(青い文字は、雑誌本文記事です)
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昭和の時代を見るために参考になる図書を紹介します 昭和の雑誌を主に載せています。男性誌が多いです 平成の雑誌を主に載せています。男性誌が多いです 10年ごとの年代の年表です

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