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1969年(昭和44年)の出来事について

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週刊現代 1969年2月6日号より
廃墟 落城後の安田講堂にみた死の町同然の姿

東大の1969年の入試が中止に決まり、色んな人たちがあわてふためきました。全国を吹き荒れた学生運動も東大の攻防で終わりかとも思われたのですが、実際は70年以降もしばらく続きました。
この現代のモノクログラビアページに、安田講堂の攻防後中に入ってフォトルポをやっています。
安田講堂時計台塔屋 そこにはもう投げ落とす石もなくなっていたのだろう。セメントでかためられてあったレンガの壁も占拠学生たちの”弾丸”として無残にもはぎとられてしまっていた。
総長室前の便所 水の出なくなった便器からあふれ出た汚物が、床にたまった放水の水の中に浮かんでいる。そのきたならしささえ気にならぬほど周囲はすっかり荒れはててしまっていた。
・・・・
一瞬、シンとしずまりかえった東大構内に、最後の時計台放送が最後のことばを語り終え、かすれた声で歌う学生たちのインターがしだいにうすれていった。落城には、悲壮なロマンティシズムがつきもののようである。ときに、一月十九日、午後五時四十五分・・・・。
落城後の安田講堂に一歩、足を踏み入れるとそこには、もはやそのような感傷を許さない荒廃がめだった。国民の耳目を集めたあの三十五時間の攻防戦のあいだ、テレビが、ラジオが、新聞が、いくたびこの荒廃ということばを使ったのか数え切れなかった。
・・・・
講堂中央階段のてすりは、中の鉄骨がむき出しになるまでうち砕かれ、窓という窓はすべてベニヤ板で頑丈にうちつけられていた。しかしそのいくつかは、放水の圧力でふきとばされ、そこから入ってくる冬の陽ざしが、この場に不似合いなほどおだやかであった。
こうして、69年は始まり、受験生のため息と東大病を今年は癒せないという思いが、浪人、他大学との選択に迫られていきました。
私は、東大や京大には全く無縁でしたが、友人の中には本当に泣いて慶応へとかあったようです。
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週刊アサヒ芸能 1969年2月13日号より
ただいま人気バンカイ中

今も昔も、人気商売は恒に人目をひいておかなくてはダメなのですが、コラム欄にも面白い記事がありました。
”人気”をイシキするのは、なにも芸能人ばかりではない。
”エイちゃん”こと佐藤首相から、キャバレーのホステスまで、”人気”の下落はカネの切れ目とあって、”人気”をイシキすることシキリである。
昨今の音楽界は、洋の東西を問わず、”ヤングパワー”攻勢でベテラン組が押しまくられているが、新しい年を迎えビートルズから歌謡御三家まで、目下”人気”のバンカイにケンメイだ。
麻薬だの、ヨガだの、全裸写真だのとハプニングを演じて、ファンをやきもきさせていたビートルズも、去年はアップルレコードを設立して、ヤル気を見せた。このアップル・レコードからは、女性フォークシンガー、メアリー・ホプキンを誕生させ「悲しき天使」をヒットさせていちやく人気歌手にのし上がらせているし、秋には一年ぶりに新しいアルバム、「ザ・ビートルズ」を発売してファンを満足させている。
このアルバムは一年がかりで製作されたもので、新曲ばかり30曲が収められている。・・・・・
橋幸夫、正月の東京公演ではゲストの黛ジュンや東京ロマンチカに人気が集まるという番狂わせがあったが、ロマンチカの鶴岡雅義の「ゆきずりの女」を歌ってファンを湧かせた。・・・・
西郷輝彦は、悪名高き自民党の国民歌を唄ったり、過去の女性関係を告白したりしてファンにそっぽをむかれたが、今年は大阪で長期公演に成功、いっきょに人気バンカイを計っている。
ビートルズの最後は、というか最後くらいから、私はレコードが買えるようになってきましたから実際のところは大学時代に一番聴いたものです。デビューの頃はまだ英語もならっていないときでした・・・。
昭和44年は、混沌としていたのでしょうか。学生運動が非常に盛んで東大受験がお流れになったり機動隊導入であったり、ゲリラが各地に出没した時代にも芸能界は、毎年のように人気者を作っていったわけです。
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週刊現代 1969年4月17日号より
出番待ち夏を売る七人の美女 前田美波里・森田敏子のあとを襲うのはだれか

前田美波里の衝撃は、美波里がどうこうというよりも私はあのポスターのアングルに衝撃をうけたようです。それまでは、女性の写真は美しくキレイにが基本だったように思います。いわば秋山先生が花と女性をコラボして写すというのがポスターであったようですが、大胆に、でっかい顔が全面に押し出されているあのポスターはすごかった。
そして、この号の巻頭モノクロページには、7人のモデルたちの写真がのっています。
太田ナオミ(カネボウ化粧品、鐘淵紡績)父親が日本人、母親がスペイン系イギリス人の混血。
穂高ユリ(日本レイヨン)父親はスペイン人、母親は日本人。
バーバラ・バーガー(マックスファクター)ニューヨークのトップモデル。
秋川リサ(テイジン)まだ十六歳だが、169センチ。モデルになってまだ十ヶ月にならない。
シリア・ポール(パピリオ化粧品)父親がインド人の混血。
木原美知子(東洋レーヨン)オリンピックで活躍。
小泉一十三(ひとみ)(コーセー化粧品)昨年の東レにひきつづき、今年は化粧品のもでるとして登場。各社のポスター・モデルの中では数少ない純国産。趣味は読書、それもサルトルが好きだという。168センチ、83−60−92 19歳。
このなかでは、小泉一十三が好きでした。当時はグラビアモデルにもなったような記憶があるのですが、思い出せません。穂高は篠山紀信がひんむいていたような気もします。
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週刊現代 1969年5月8日号より
ケンカ別れした晴乃チック・タック

当時は、かなりの売れっ子ピーチク・パーチクのでっさんでしたか・・・・?
漫才の晴乃チック・タックが九年間のコンビを解消。チックは新しいコンビと漫才を続けタックは一匹狼のコメディアンとして再スタートすることになった。ふたりの仲のわるさはこの世界では周知の事実、楽屋では口をきかず、ステージの上でケンカしたこともあったようだ。”若手ナンバーワン”というレッテルで、かろうじて続いていたコンビだった。
・・・・
タックの話では、独立を考えたのは二年前。ある舞台に役者として起用された時、その芝居の作者に「君らをつかうのは必要からじゃない人気があるからだ」といわれてから、それでなくとも態度の大きいチック(全盛時代、寝ころんで新聞記者のインタビューをうけたことがある)にハラハラしどうしだったタックとしては、おそまきながら”決断のとき”だったようだ。ふつうならわるくいわれるはずのタックに同情票が集まっているとは、人間日ごろが肝心・・・・
漫才自体、この二人のはあまり覚えていません。関東系ですので、やはり聴く機会(TV)がすくなかったのかなぁ。人気者であったことは覚えています。
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週刊現代 1969年6月19日号より
三派に追われた11PM出演教授の抵抗

たしかに、イレブンPMには、おかしなアラビア人が出演していました。大阪放送の時に、いやに鼻の高い人で異常な鷲鼻だったように思います。話は結構面白くって、最初だったか最後だったかに「アッサマレコン・・・・」とか挨拶をいていたようですが・・・
「ついに革命同志会は、アラブの怪人物、カセム・アリを”追放”」とくれば、またぞろ中近東で風雲急をつげる気配、とうけたられそうだが。
ところが、このカセム・アリ氏、翌日には堂々と大阪読売テレビの深夜番組「11PM」(火、木放映)に登場。アラビアの王様スタイルで、たどたどしい日本語を操りながら、スケスケ・ルックのオンナのコをあいてに、軽妙なエロ談義でわらわせているのである。
茶の間のオトナたちのあいだでそのエロ談義の洒脱さが、今や大うけで、はては「日本人だろうか、アラビア人の特別出演か」と話題のナゾの男、カセム・アリ・・・・実をもうせば、この人物こそは大阪外語大の田中四郎教授で、わが国きってのアラビア語の権威なのである。
しかしながら、この当時の学生運動の激しさからアラビア語学科の学生から総スカンをくったようで、田中教授の研究室を封鎖するやからが出現。結局辞職ということになったようです。
もともと同大学の学生であって、そしてその大学で教鞭をふるうということになったのですが、辞職後もアラビア語のエキスパートとして、引く手あまたであったようです。最後には、カセム・アリ氏は学才のみならず商才にもひときわたけた人物とおみうけするとくくられています。
11PM大阪、やっぱり結構みていました。カセム・アリは覚えています。
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サンデー毎日 1969年6月22日号より
”機械”に頼るのは無能じゃないかネ

近ごろのテレビショーには、さまざまの”機械”を持ちこむのが大流行で、前田武彦の「夜のヒットスタジオ」はコンピューターの恋人えらびを売りものに高視聴率をほこっているが、高橋圭三司会の「歌うスタジオ」(東京12チャンネル)は、なんと「人気歌手をウソ発見機にかける」のが売りもの。現在までに都はるみ、北島三郎、伊東きよ子らがモルモット代用にされているが、制作担当者側は、「人権侵害だ、やめろ、という投書はまだ二通しかきていない」ことをたてに「吉永小百合に、あなたは処女ですかという質問を与えたら面白いじゃないのか」と、大マジメ。もっとも、強制はできぬわけだから、歌手やタレントのほうが、ことわればソレまでなのだが「コンピューターだの、ウソ発見機など機械のたぐいをやたらに持ちこむのは、テレビ局がショーをショーとして見せる能力がないことを自分で証明したようなものだ」と、批判の声も高い。
「夜のヒットスタジオ」の恋人選びコーナーは、番組でも目玉のひとつでしたが、まだまだコンピューターなるものを現実視できなかった視聴者は、うそかまことかコンピューターがえらんだ人物に夢をみたものです。
ただただ空想が、コンピューターがえらんだと言うだけでなんとなく信頼おけるものとして見ていました。今なら何を馬鹿な。占い程度にも考えないでしょうけれど・・・・。
また「歌うスタジオ」と言う番組全く知らないのでよくわからないですが、ウソ発見機を番組に導入とは、すごかったのでしょうね。
2013-02-05記
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週刊朝日 1969年7月11日号より
週刊朝日 この号の広告とコピー

30年以上前の広告を見るだけでも、面白いものがあります。キャッチコピーもその当時の世相を現したものも多いのでなかなか興味深いです。
アサヒビール 本生
  日付だけを見て「できたてだナ」飲んで「さすがに本もの」
サントリー
  心にのこる贈りもの 瓶にこめた誠意のしるし
ワンカップ大関 
  ぐんぐん伸びる評判の清酒
松坂屋
  ゆたかなくらし マツザカヤのギフト100選
ナショナル パナソニックテレビ
  未来技術のトランジスタテレビ パナステート14
三輪そうめん山本
  万葉の昔よりさらに細く味よくと
フジサワ薬品 チオクタンS
  疲れをとる!肝臓を守る会
日本勧業銀行
  ボーナス一時お預かり所
日本不動産銀行
  100万円を141万円にふやす
大阪ガス
  ガスだからできる瞬間セントラルヒーティング
大丸
  贈りかたは同じでも あなたの個性がかよいます
東芝カートリッジテープ
  越路吹雪ヒット・パレードVol.2
コパル
  シングル・スーパー・レギュラー兼用の8mm映写機
  この数々の便利な機構で2万6千円です
金鳥
  日本の夏  金鳥の夏です(写真 美空ひばり)
SONY
  新発売インテグレート200 3年先のステレオ
  システム・ステレオの時代がやってきます
神戸銀行
  生活に力を 未来に安心を
大手の会社のものから、小さな有名な会社のものまで、新聞社系の広告はジャンルが豊富です。また、銀行も合併の合併前での広告です。
日本勧業+第一銀行で第一勧銀に、神戸+太陽で太陽神戸に、またそこからさらにみずほ、太陽神戸三井から三井住友へと、経済の波がそのまま銀行の変遷をあらわしているようです。
そして、今や考えられない8mm系の映画フィルム映写機も載っていました。
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週刊朝日 1969年7月11日号より
万博EXPO漫談 てなもんや地球祭り

昭和44年というと、大阪万博(日本万国博)の1年前。しかし、月へ行く行事は、沢山見ましたが、万博の途中経過は全くといって良いほど私は知りませんでした。
「進歩と調和」と、うたい文句は神々しいが、現実に進行中の万博劇の焦点はこれにおちる”約一兆円”といわれる大枚の行方。舞台裏で展開されるヨクと打算のカットウはもはや怪談というよりも喜劇とよぶのがふさわしい。こうなってみると大阪が舞台に選ばれたということさえ何やら象徴的にみえてくるではないか。
えらく、揶揄して僻んだ見方の記事になっています。当時はまだまだ大阪は、国(関東)からすると魑魅魍魎が跋扈する地帯となっていたのではないでしょうか。
”千里のヤブ知らず”といわれ、タケノコの名産地だった大阪・千里丘陵の一角に、”二十一世紀”を売り物の一大旋風がふきまくるのも、時代の流れ。後楽園球場の百倍といわれる、ご存じ日本万国博覧会の会場づくりも、どうやらエンジンがかかったようではある。
シンボル・ゾーンにかかる世界最大の大屋根も、そろりそろりと上昇しはじめた。重さにして約四千七百トンというからアポロ11号ロケットの約1.7倍、タテ二百九十メートル、ヨコ百八メートルにおよぶベラボウな鉄の骨組みを、ジャッキで、三十メートルまでもちあげようという作業。
その上昇スピードは、一日平均一メートル。六月二十三日に、この”シャクトリ虫運動”の口火をきってからというもの、毎日、協会職員が記者室にかけこんできては、赤エンピツで今日はどこまで屋根が上がったかを折れ線グラフに書き入れるというさわぎ。
こういう具合に、皮肉たっぷりに、いろいろな記事が書かれています。愛知万博でもこうは書かなかっただろうという風です。
当時は、万博=”何がなにやらわからぬもの”というふうに見られていたようで、世界から展示品がどさっとやってくるものだということで・・・・
1年経ってあの狂乱の万博入場物語が始まるのもわからないで・・・・
とにかく、記憶にはないけれど写真に残っている
万博は、未来都市をあらわしていて面白いものでした。このページのトップへ移動
サンデー毎日 1969年8月10日号よりnew
歌うばっかりじゃダメ?

桐朋学園声楽科卒、六十七年の十月イタリアで開催されたインターナショナル・ローズ・フェスティバルに日本代表で参加というかがやかしき経歴の持主の歌手瀬間千恵が、新曲レコード「行かないで」の発売を期し、全裸ヌード=写真=になったことで「よくやった」「なにもソコまで」と彼女の周囲は話題騒然。
瀬間千恵が「さよならに口づけて」で、レコード界にデビューしたのは昨年の二月。「自信はあったのに、ヒットしなかった」のはPR不足が原因と猛反省し「これでもか」とヌードでカメラの前に立ったしだい。
近ごろでは、歌手や女優のヌードなんて、さして珍しくもないが、クラシック畑出身、歌唱法もごくまともな瀬間千恵が”脱いだ”のは「おそらく、今年のポップス界のビッグ・ニュースの一つになるでしょう」と彼女を脱がしたフィリプス・レコードは宣伝にこれつとめている。
このころは歌謡曲を一番聞いていたような気がするのですが、この方を全く覚えてないか、知識不足で全く知りません。
当時パンチやプレイボーイをしっかりと読んでいたつもりなのですが・・・
「近ごろでは、歌手や女優のヌードなんて、さして珍しくもないが・・・」とありますが、女優はしかたがないとしても歌手が珍しくないほど裸になっていたんでしょうか、ちょっとだけ疑問です。これから電脳百科を調べてみることにしましょう。 2014-01-16記
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サンデー毎日1969年8月10日号より
週刊アサヒ芸能 1969年10月16日号より
ワイドルポ すべての道は万博へ

この号のモノクロ巻頭グラビア記事が、万博の周辺道路や歩道橋施設の工事状況を載せています。アサヒ芸能も普通の週刊誌だっったわけです。
開幕半年前ということですが、写真には、今工事が掛かりだしたような感じの写真が載っています。万博への電車の線路は急ピッチで敷設されていくようです。
会期中のホテル不足は深刻だ。外人観光客の予約で、関西地方の一流ホテルはすでに満室。大阪に知人のある人はともかく、それ以外の人は完全に締め出される。それを当て込んで増設に与念のないのが、周辺のアベック専門旅館、モーテルなど。すでに茨木市内のいっけんそれとわかる旅館にもぼつぼつ予約が出はじめたというから悩みは深刻。「あんなに増設して万博が終わったらどないするねん。」という声もあるが、そこは抜け目ない業者のこと”アベック人口”の増加もちゃんと計算ずみとか。
水着の”給油女性”を登場させ話題をまいたドライブイン・サンパーク(千里ニュータウン入口)では万国博のためにドロナワの英語講習会をはじめたり、万博コンパニオンならぬカー・コンパニオンとやらを採用、給油の仕事につかせている。
万博関連産業の話、アクセスの話などは、1969年ころの雑誌にはよくのっているのですが、当時大阪にいた私としてはこういうことには全く興味も示さずただ、「ああ、始まった、チケットがあるから行かなくては」と思っていただけなのです。
入場してもせいぜい友人の写真を撮ったり、会場内を写したりで、パンフも書籍にも興味を示しませんでした。唯一、切手を集めていたので、その記念が残っているだけです。そして、その切手を貼るために買った、絵葉書が残りました。今思うとちょっと惜しすぎます。
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週刊読売 1969年10月31日号より
やめてたまるか!「裏番組・・・・」

裏番組をブッ飛ばせ!!は野球拳を番組内でやり、有名タレントを脱がせていくという、やらせ?本当?ちょっとわからなかったような番組でした。その詳細は全く覚えていないのですが、のちのちの熱湯ブロのような、着替えボックスみたいなものもあったと記憶しています。
「九月いっぱいでやめる」といわれていた「裏番組をブッ飛ばせ!!」が十月末になっても、依然として放送されている。
この情勢の変化は、朝日新聞のせいだ、といったら「ハテナ?朝日は、あの番組をコテンパンにやっつけていたんじゃなかったかな」と首をかしげる人もいるだろう。
・・・・
これが日本テレビ側を刺激して、情勢を一転させてしまったのだ。
同番組の担当者である細野邦彦ディレクターは
「やめる予定だったのはホントだったんです。私自身も、けっして教養あふれる番組だとは思っていなかったし、裸の番組というのはひけ時が大切ですからね。
だが、そう思っている矢先に朝日新聞はスポンサーのところまで、のこのこ出かけていって、どうしてあんな低俗番組に金を出すんだ。今後も続けるならもっと書くぞ、というようなことをいったということを聞いて気が変わった。
ここでやめたら、たたかれたからやめた、と朝日は得意になって書くに違いない。これじゃァ、やめられませんよ。局にも私個人にも、意地がありますからね、とその”心境の変化”を語る。
当時は、裸の必然性がいったのだと思いますが、唐突に裸が現れるというような番組はなかったような。今もそうかも知れませんが、時間ですヨなら風呂屋さん。裏番組では、野球拳と一応裸にならなければならない場面です。それが、私たちを、テレビに走らせた原因であるのは間違いありません。11PMはかなり無理のある裸だったような・・
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週刊ポスト 1969年11月21日号より
マスコミにそっぽを向かれた、レコード大賞

「ことしからアカデミー賞形式で・・・・」と運営委員会がリキんでいた第11回レコード大賞が、ドタン場にきて総スカンを食っている。
ことしは最終審査を12月31日の午後八時から帝国劇場で行い、その一部始終をTBSテレビをキー局に、NTV、フジ、NETのネットワークに流して全国中継し、NHKの紅白歌合戦(司会は、坂本九と伊藤ゆかりに決定)のオカブをとろう・・・・というのが最初の計画だったのだが、
「とんでもない。TBSさんにオイシイところをとられたものを、われらがいっしょになってオミコシかつぐこともないでしょう。中継なんかできませんよ。」(某テレビ局幹部)
「そのうえ、記事掲載についてはおおみそかにやっても、スポーツ新聞の場合、正月分は30日にはもうできているし、週刊誌だって暮れには三週先の号がすり上がっている。たかがレコード大賞くらいに、スペースも労力もさけない」(新聞関係)
とまでいわれて、いずれも協力を断られた上に、カンジンのレコード会社にまで、
「レコード大賞をもらっても商売にならない。しかも紅白のまえに泣き笑いをアップで撮られてはタレントだって迷惑。とてもじゃないが協力できない」(某社文芸部長)
といわれては運営委も泣き面に蜂。テレビ各局の審査員にもオリられて、急きょ大鵬や金田投手を審査員に引っぱり出すなど、目下そのアナウメに大わらわだが、レコード大賞もとうとう運営委のお歴々だけのオモチャになってしまったようだ。(記事終了)
昔は紅白歌合戦の視聴率は60%、70%が当たり前でした。
だから、NHK対民放というよりも、NHK紅白と「何か他の局テレビやってる?」程度でした。レコード大賞の授賞式も、紅白が始まる時間前でしたから結構視聴率は上がりました。
しかし、紅白が早く始まるようになりますと、もうレコード大賞は残念ながら敵ではなかったようです。
将来性のある歌より、大ヒットした歌をレコード大賞に選ぶようになってからは、マンネリ化していったように思います。
「いつでも夢を」や「こんにちは赤ちゃん」が大賞だったころが、懐かしいです。
私も歳がいったせいか、大人数でワイワイガヤガヤと歌って踊るという曲風のものは、「ちょっと、遠慮しておきます」という気分になります。 2012-12-07記
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平凡パンチ 1969年12月1日号より
ポール死亡説・その後の波紋
巻き返したビートルと業界の商魂

ビートルズのレコードは、サウンドが”高級”になったことも手つだって、このところ売れゆきも低調。ビートルズ自身も”ヘアのカーテン”をおろして(?)四人そろってファンの前に現れることもなくなった。
初期のころの、イギリス恋愛演歌の様相が、終わりになると宇宙を目ざして、トリップするというような、崇高すぎる音楽となってきては、凡人それも英語を使わない日本人にとっては、もう難しすぎる音楽になっていました。ビートルズは、「ストロベリー・フィールズ・・・・」の頃で終わったなあと思っていたのでした。
おりもおりミシガン大学の学生新聞のイタズラが原因で全米にポール・マッカートニーの交通事故死亡説が吹き荒れた(本誌既報)。
「ライフ」誌の会見記事でポール地震が”バカげたウワサ”と否定したが、火の手はやまず。
「アップル」社がポールの生存声明書を出すさわぎ。
ところが、コトの真偽におかまいなく、ポールの死亡説に便乗してビートルズに関するレコードがぞくぞく発売されている。本場(?)アメリカではポールにひっかけた「兄弟ポール」「ポールのバラード」「親愛なるポールよ」「聖者ポール」はては「ポールのなきがらを墓場に運んだ男」etc。
いっぽう、ビートルズ自身のレコードも全世界に死亡の報が波及するにつれ、レコードの売れ行きも爆発的にのびている。
日本でも十月二十一日発売の「アビィ・ロード」がここへ来てアッという間に七万枚。近くその中の「カム・トゥゲザー」と「サムシング」をシングル盤で十一月二十一日に売り出す。
発売元の東芝は、「サウンドが最近での出色、ということも確かですが、死亡説がキッカケといえないことはない」と言っているが、ビートルズもイノチガケ(?)でないとレコードが売れないとは、やっぱり落ちめという見方も出ている。(記事終了)
ビートルズ全盛だった頃は私が中学、高校生であったのでそうそうレコードも買えずもっぱらAM放送を聞いているというものでした。
洋楽(ポップス)は聴き心地よいものが勿論好きでしたから、後期アルバムからの変な音楽(とっつきにくい音のもの)は聴きませんでした。
ビートルズならどれでもよかったというものではありませんでした。
実際にはビートルズ(涙の?)解散宣言以降にレコードも購入できるようになり聴いたものも沢山ありました。
2013-02-05記
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平凡パンチ1969年12月1日号より
週刊プレイボーイ 1969年12月23日号より
イメージで犯しちゃえ
<オナペット>に選ばれた女のコ

当時はタイトルにあるような「オナペット」という言葉が男性誌には普通に、載っていましたが、今のようなグラビアからブルーレイまでメディアとしてあるというような状況ではなかったのです。
とにかく高校、大学時代、グラビアページはどきどきしながら見たものです。まだテレビは家に1台しかなく、チャンネル権はもちろん両親にありましたから11PMもなかなか見ることが出来なかったような・・・・。そして動く女性は、TVで見落としてしまえばもうそれきりだったわけです。
小百合、酒井和歌子はお呼びじゃない
都内10校、約100人の高校生が選んだオナペット・ベスト20。
杉本エマ、立花マリ、大原麗子、野川由美子、渥美マリ、ハニー・レイヌ、倍賞美津子、藤純子、いしだ・あゆみ、桑原幸子、森田敏子、集三枝子、小川知子、青木エミ、麻生れい子、大川栄子、黛ジュン、榊原ルミ、松岡きっこ、十朱幸代、次点、ロザンナ
なんにも原則がないじゃないか?そんなことない。
まず、清純派はお呼びじゃない。
「小百合とか、酒井和歌子とか、松原智恵子とかさ、できないことはないよ。だけど、あの顔を思い浮かべてさ、イメージとしてはすぐ下に下がっていくじゃない・・・・
ああいう顔は、そういうセクシーなイメージと矛盾しちゃうんだな。無理にハダカにしたってさ、ものすごく抵抗するか、でなければ、されるままになって、ぜんぜん、カラミついてこない感じ。こっちがくたびれるだけだもんな。恋人とか、ガールフレンドってことなら、また考えようがあるけどさ」
ちょっと過激な意見の部分は、はしょってあります。松原智恵子さんは好きでしたけれどね。あと、青木エミ、大川栄子、森田敏子、麻生れい子なども良かったような気がします。
このころは、好きな方がどんどん気鋭の写真家さんに裸にむかれていったころでしたので、どこかでも書きましたが、毎週の週刊誌がワクワクでした。
・・・・・・
要するに、大事なのはイメージだ。そのイメージを開発する手段はいろいろある。映画、テレビ、小説、週刊誌の記事のタグイ、友だちどうしのワイダン。ときにはひそかに回ってくるワイ写真。
「でも、小説を読みながら、映画をみながら、ワイ写真を眺めながら、というやつもいるかも知れないけど、ナンセンスだな。
それを一度はなれて、自分のイメージに作り直すんでなきゃ、面白くもなんともないんじゃないかな。イメージだけで・・・・
記事は5ページにわたって、載っているのですがようするに、イメージが大事。またこの記事が当時のなつかしい女性タレントを思い出すひとつになればと思います。上記の女性のほか、中山千夏、橘ますみ、なども記事にあがっています。 このページのトップへ移動
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(青い文字は、雑誌本文記事です)
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