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1971年(昭和46年)の出来事について

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週刊ポスト 1971年1月1日号より
「透きとおってるウ」パリの田舎ッぺ ダニエル・ビダル

70年代初期の、外国人タレントというと私はダニエル・ビダルを真っ先に思い出すわけですが、この号の記事ではかなり皮肉っぽい内容でかかれていました。
「彼女自身、日本での今の人気が信じられないんじゃないですか」と関係者もかたる売れっ子は、例の”透きとおってるってホントかな”のCMでおなじみのダニエル・ビダル。このフランス娘のどこがアピールしたのか・・・・。
「フランスではちっともチヤホヤされなかったのに、今はニッポンの男のひとたちが”キレイ””カワイイ”といってくれて、とてもシンセツでしょ。わたしホントにシアワセ。ニッポン・ダイスキ!」
ブルーの瞳をクルクルさせて知っている日本語を駆使しながら、彼女は語る。おそらく、ウソいつわりのない正直な感慨だろう。
彼女は1951年モロッコ生まれ(19)のマルセーユ育ち。高校中退後パリにでて、昨年9月「天使のらくがき」「カトリーヌ」を日本語で歌ってデビューしたが「フランスではまだかけだしの新人だし、それにあのかわいらしさが本国ではアピールしないらしくて」(ビダルを呼んだ青山音楽事務所社長・青山ヨシオ氏)、見向きもされていなかったらしい。
小柄で本当に可愛い、フランス人形が日本語を歌っているというあり得ないシーンが受けたようですが、本人はモロッコ生まれなので田舎ッぺですよと語っているとか。とにか可愛さ先行ということであったようです。
・・・・
たとえば、日本テレビ細野邦彦ディレクターは語る。
「人形が歌って踊ったっておもしろいわけないよ。そんな小娘を出すテレビ局も軽薄なら喜んで見る大衆も軽薄だナァ。がめついフランス人が日本人の外人コンプレックスを利用して稼いでいるんだ。ナサケナイですな。日本って国も」
しかし、なんといわれようと「来年も彼女を使います」とサンスターのCMを作った電通クリエィテブ室の新保郁也氏。
・・・・
爆発的なヒットであったのかどうかといわれると、そうでもなかったわけですが外タレとしては、かなりの人気者でした。私もその可愛さに魅せられてしまったわけで、ビダル以降に好きになった、外タレさんというとなかなか思いつきません。
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週刊ポスト 1971年3月19日号より
”日本の前衛”を総出演させた「寺山映画」のポルノ度

アングラから前衛へとばかりに、1960年代末から1970年代にかけて、いろんな表現方法が試されていましたが、私は美術系が好きでしたが、やはりインパクトがあったのは、演劇系なのでしょう。とにかく、裸は必須条件のようで、今のように裸の洪水の中で暮らしてはいなかったので非常に当時の前衛の裸には興味をひかれたものです。しかし、stripshow以外で見た事はなかったです。
すでに廃墟となった都電の車庫のなかで、ハダカの少女が全裸の男のうえにまたがって、ギッチラコ、ギッチラコ・・・・。
”日本の前衛”寺山修司の映画「書を捨てよ町へ出よう」がアップしたが、中身はこんなシーンの連続。他にも文学界新人賞候補になった鈴木いずみが男に乳房を吸わせるところや、丸山明宏の入浴シーンがあり。
なにしろ出演者がどれも一クセも二クセもある人たち。”丸山、鈴木の他には東京キッドブラザースの小林由紀子、新高恵子。歌手の浅川マキなど。この人たちがスクリーンに登場すれば「それだけで・・・ゲップ」
・・・・
この映画はATGが1200万円出して制作したもので、ゴールデンウィークに封切られる。
「これほどのポルノ的要素があればヒット間違いなし(ATG関係者)。
という声もあるが・・・・・。

非常にヘンチクリンな映画だったそうであるが、見た事がないので私はあまり言えません。
しかし、当時鳴り物入りの前衛はすべて、わけわからんかったです。
ストリップに前衛劇団がとかいってST劇場でみたこともありますが、結局は全身におしろい塗りたくってシロクロショーだったりしました。
それはそれで、動きも面白かったですけれど、やはりSTは、もっと過激でないと、そう思いました。
週刊現代 1971年4月8日号より
ネタ不足に泣くドラマのTBS

当時のドラマ「時間ですよ」は、必見のドラマだったようです。江戸屋猫八だったかが女湯ののれんをわざと間違って開けて入っていってきゃーが見たかったのですね。この号にはこんなびっくりするような記事があるのですがこのドラマはもちろん覚えていないです。
水前寺清子、佐良直美、和田アキ子、ちあきなおみの共演のドタバタ喜劇をつくる・・・・決して悪い狙いではない。
ウーマン・リブの四人姉妹を主人公にしたバラエティ・ドラマ「おかしな四つ児」(TBS)がそれ。ガッチリした台本とある程度のリハーサル期間があれば、かなり面白いものができるでしょう。が、その可能性となると、いずれも売れっ子だけに、かなり望み薄。事実、四月八日放送開始というのに三月二十四日現在、一本も撮り上がっていない。
決まっているのは毎週水曜日リハーサル木曜日本番というスケジュールだけ。本番は正午からスタジオで八時間の予定だが、四人のスケジュール調整がつかず、賞味使える時間は見当がつかない。・・・・
このドラマやったのでしょうか、もちろん放送されたのでしょうけれど、このころは大学生だった私にとっては、毎週毎週のドラマがもうかなり見るのに疲れるようになっていた頃です。一話完結の「水戸黄門」とかそういう時代劇や現代劇しか見なくなってついにはバラエティやクイズしか見なくなったのです。
この「おかしな四つ児」、今思うとスゴイメンバーですから面白くなっていたのでしょうね。
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サンデー毎日 1971年5月2日号より
女は三つで勝負する 声・体・度胸のフラワー・メグ

この年は、雑誌をみているとフラワー・メグの年のようです。結構記事が見て取れます。売れっ子ヌードモデルとして、どんどん雑誌のグラビアに載っていったようです。
彼女のヌード姿がある雑誌にのったとき、父親に平手打ちをくわされたそうだ。「私はまだ若い その可能性をためしきるまではだれにナンといわれようとガンバッちゃう」と意気ケンコウ。そしてこのほどヌードでレコーディングしてなみいるカメラマン諸氏をアッといわせついに”ポルノ歌手”誕生!と叫ばせたその名はフラワー・メグ本名木村和代(19)
・・・・
その度胸が買われて4月からNET「23時ショー」のカバーガールに登場。5月10日からは大竹省二氏がアサヒペンタックス・ギャラリーで彼女の個展を開くし 7月には日劇への出演も決まった。
昨年3月都立第一商高を卒業 坂上道之助 石井満隆氏らに師事 10月に赤坂のナイトクラブ”スペースカプセル”の専属になった。
「声がいい、それ以上に肢体がいい、それ以上に度胸がある 絶対モノになるというのが周囲の声
この号では、モノクログラビアページに3ページが載っています。当時ですから上半身裸の写真ですが、彼女の独特の顔つきは非常にかわいいです。今どうしているのかはわからないですが、「あの人は今」に出てもらいたいくらいです。
週刊文春 1971年5月17日号より
この人を 裸が衣装 フラワー・メグ

この年の4月には、大阪のデパートであったカメラショーの撮影会にモデルが来ているという事で撮影に行きました。あまり覚えてないのですが、このフラワー・メグはモデルとして来ていました。ショートパンツにちょっと透けるTシャツだったかなぁ。着飾っているというものでもなく、写真をパシャパシャと撮りました。残念ながら、ほとんどを捨てています。今思えばもったいないことをしました。
エキゾチックなマスクにおされ、質問も及び腰になる。・・・アノォオクニハドチラデスカ?
「メグロ」
・・・・エッ、メグロゥトイイマストトーキョー?
「目黒で生まれたのでメグって名前つけたんです」
というわけで日本女性であることが判明。にわかに質問が軽やかになった。
ところがである、彼女なかなか口が重い。
・・・・
本拠地は東京赤坂のクラブスペースカプセル、そこでは週三回ショーをこなし”有名”カメラマンからモデルの口がかかっている。
・・・・
本名は木村和代19歳。
このカラーグラビアではパンツ姿で上半身は裸です。決してボリュームある体の方ではなかったですが、日本人らしくないその顔が可愛かったです。平凡パンチにはよく載っていたようです。
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週刊朝日 1971年6月25日号より
人気写真家がレコード界に進出

1960年代から、当時若手と言われた写真家は、それまでの古式豊かな映像作法にとらわれずに活躍しだしたように、私は思いました。岩とヌード、山とヌード、ブレ、危ないポーズ、それまで美しい花や街やヌードを見ていたものとしては、実に新鮮にうつりました。とくに篠山紀信の撮る写真に「プレイボーイ」は毎週待ち遠しかったように思います。
立木義浩や加納典明の若手写真家の人気は急上昇。この人気に乗っかろうと、このご両人、今度はレコードにも進出してきた。”脱ミュージック”がLPレコードでは今や盛んだが、音楽と写真の組み合わせでよりより情感を作りだそうというもの。
立木義浩はコロムビアから神津善行作曲、中村メイコ作詞とトリオを組んで「めあい(女愛)」というLPを作った。
一方加納典明はジャズの大御所、猪俣猛と組んで「イノセント・カノン」というタイトルでキングからLPが出る。加納の方は写真ばかりでなくナレーションも担当している。
立木の作品は、ほとんどが抽象的にまとめられており、ヌードはほとんどない。加納のほうは、グッとエスカレートしている。ポルノ的なその作品をみると思わずニヤリとするとか。
ここにもあるように、加納さんは昔から過激だったようですね。
どちらももう、日本の写真家としては重鎮といわれるようになっておられるので、若気の至りということなのかもしれないですね。
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Pocketパンチ Oh! 1971年7月号より
FRESH CM GIRLS

このころのCMモデルたちが、巻頭カラーページに出ています。知っているかたもいれば、知らないかたもいるということで、少しだけ載せてみます。
ケイ・アンナ コーセー化粧品
ガラは小粒だがしまったマスクで画面を引き締める。21歳。身長158cm B86W58H85。
西野ミチ カネボウ化粧品
ミシガンはデトロイト生まれ。17歳。
野々あさみ サンキスト
ヒップ脚線美は重要文化財にしたいほど。20歳 身長161cm。
州戸恵子 MBS・CMガール
MBSのファミリー・スタジオでCMをやっている。20歳。身長161cm。
小沢博子 大阪・高島屋
17歳というのに、モデル歴10年の大ベテラン。身長163cm。
田坂都 明治キャラメル
ドングリ目玉のチビデブは大変な売れっ子。19歳。153cm。
ハニー・レーヌ 日本LB・サンタン製品
料理はタケノコごはんとシチューが得意。19歳。158cm。
この中で、知っているのはケイ・アンナ、田坂都、ハニー・レーヌです。小沢博子は、見覚えあるのですが(大阪・高島屋だからか)名前もまったく知りませんでした。沢山の方がCMモデルだったわけで、この特集は少々B級ではとか思います。
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週刊ポスト 1971年10月29日号より
ポルノ解禁に拍車をかけるか   超特大ポルノ女優の来日


このタイトルにあるような「超特大ポルノ女優」かどうかはわからないのですが、非常に綺麗な女優さんだったとおもいます。そして日本人受けするお顔でした。外国人外国人した顔でなくなんとなく日本人風でありました。
きわめつきのポルノ女優・・・という評価がとみに高いのが、サンドラ・ジュリアン。イタリア生まれの二十歳。フランス映画「色情日記」で主演している。
その顔だちはいたって清純、ところが、その肉体がすばらしい。B90、W91、身長170というプロポーションで、濃厚な演技を果てしなく続ける。
「見ているこちらが本当にモヤモヤしてきてしまった」(芸能記者・U氏)
 と、ポルノずれしたものでも感嘆するほど。
・・・(略)・・・
男二人に前と後ろの両方から攻めさせたり女を襲ってレズ行為を強要したり・・・ありとあらゆる体位のオンパレード。
この映画は見ていませんし、あとに日本映画に出演するのですが、その映画も最近になってDVDをレンタルしてようやく見ました・・・
・・・(略)・・・
この試写会に、宣伝のために来日のサンドラ・ジュリアンが出演する。
「舞台のうえで彼女に脱いでもらうつもりです」(ヘラルド宣伝部)
 とのことだから、生身のカラダを見て、鼻血ブーになることもありうる。
サンドラ嬢の来日は、ニクソンの訪中声明をもじっていえば
「この精神にもとづいて私はポルノの旅に出る。地球上の将来の世代のためである」
−−かくしてポルノ解禁近しに拍車をかけるか。

イタリア生まれだったのですね。そういえばどことなく・・・って、ヨーロッパ女性の国別の特徴を、もちろん私はわかりません。ただ、ジーナ・ロロブリジーダに雰囲気が似ていたような気もします。今ならハーフ・タレントで十分通用するような顔立ちでした。
あたりまえのことですが、これでポルノ解禁ってなったわけではありません。全身写真の解禁までまだまだ20年かかりました。
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週刊ポストより2012-07-06記
週刊朝日 1971年10月29日号より
フェイス’71 マジメなマリちゃん 天地真理 東京・日比谷で

(モノクログラビア記事)
「時間ですよ」でにこっとしていつも、いてるという可愛い(当時そう思っていたのですが・・・)娘であったのですが、そのこがレコードを出すということで、ちょっとうれしかったような気がします。別にCynthiaから浮気したのではないのですけれど。
テレビの人気番組「時間ですよ」で、
”窓辺のマドンナ”あるいは”二階のマリちゃん”と呼ばれて堺正章君の恋人になっています。
といえばご存じの方も多いはず。
マリちゃんは歌手希望で、いつもギターをつまびき窓辺でほほえんでいたのですが、このたび本当の歌手になってデビューいたしました。「水色の恋」を歌っています。
高校二年生のころ、早大のフォークソングクラブの準会員になってから、歌手への夢がふくらんでレッスンに励んだといいます。
このごろ、歌番組の出演がかさなって休日なんてない。しかし「休みがはいると、私、ふやけちゃう気がして・・・・」と、多忙も苦にならないそうです。「でも、レッスンする時間がほしいです」。
マジメなのです。十八歳。(撮影・出版写真部 内田洋司
そうなんだ、休むと、ふやけちゃうんですね。だから引退してまた現れた時には、なにやらふやけていたのかもしれませんね。このページのトップへ移動
サンデー毎日 1971年11月21日号より
お手盛りでヒット曲

”ホステス泣かせのヒット・ソング”として、本誌でも紹介した白川奈美の「遠くはなれて子守唄」は、その後、順調にヒット・パレードを上昇、発売元のワーナー・パイオニアの話では、すでに売上げが十万枚を越え「小柳ルミ子に次ぐスターに」と、PRマンたちが本腰を入れて走り始めた。
この「遠くはなれて子守唄」という曲、なんとなく題名はきいたことありそうなのですが、うーん、野路由紀子と間違っているのかな。覚えていないですね。
ところでこの曲、実は東京12チャンネルの傍系会社、東京12チャンネル出版という会社が製造元。そういえば・・・・と気づく向きもあろうが、この曲は”東京12チャンネルの君が代”と呼ばれるくらい、同局の深夜番組終了時に流され、ヒットのキザシを作った。一枚売れれば、三十円近くが、ころげこむソロバンもキッチリと合っているあたり、公共の電波の利用法も、ちょっとした妙味を持っていることになる。
こういう傾向は、いまに始まった話ではなく、たとえば、TBSテレビの傍系、日音という会社など、ことしは尾崎紀世彦の「また逢う日まで」や朝丘雪路の「雨がやんだら」、湯原昌幸の「雨のブルース」などを連発、大もうけして大々的な謝恩パーティーを、都内一流ホテルでにぎやかに開いたばかり。
大ヒット曲ばかりですが、私も宣伝プログラムと知らずに、ラジオに耳を傾けていたわけです。うらの商業的戦略をあれやこれやと詮索することあまりしなかったのですが、こういう話は、今も同様にCM、映画、テレビと繰り広げられているようです。
各局が”今月の新人”として、重点的にテレビ出演させる歌手もオーディションで選ぶ型をとってはいるが、系列会社が権利(もちろん、レコードが売れれば、金がはいる仕かけ)を持っている歌手が並んでいる。
こうなると、ファンは各局の”宣伝プログラム”を、それとは知らずに楽しんでいる、お人よしぞろいということにもなりかねない。(記事終了)
そうめちゃくちゃな歌謡曲ファンではなかった私は、当時暢気に南沙織を聞いていた頃で、先輩は藤圭子に身も心も捧げていた頃でした。だいたい、大学生が歌謡曲を聴くこと自体笑われてもしかたがないので「言えない」歌謡曲が好きとはいえないそんな頃でした。回りでは、ジャズ、ロック、フォーク、等で紅白に出てくるような歌手を好きとは・・・・言えませんでした。2012-10-24記
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平凡パンチ 1971年11月22日号よりnew
石井利枝が転身の伏線!?

ルックス、プロポーション抜群の人気プロボーラー石井利枝(森永エンゼルボウル)が、”歌手”を兼業することになった。スカウトしたのはワーナー・ブラザース・パイオニアで「低音のハスキーボイス、あのなまめかしさは夜のムードを感じさせ、おとなの色気を持っています」(同社伊東プロデューサー)というわけで、西田佐知子、松尾和子のセンをねらうそうだ。
このころは、めちゃくちゃボーリングがブームになっていて、須田、中山、石井の三人が女子の三羽烏でした。石井さんが、スタイルよくフォームも美しかったことを覚えています。
宝塚歌劇団出身で、歌と踊りは自信ありの石井は「スローの情感のこもったものがいい。どうせやるなら、アルバイト的ではイヤだから、みっちり練習して本格的にやる」とスゴイ意気込み。来春そうそうに売り出しにかかるそうだが、本業のボウリングのほうがパットしないだけに、歌手のほうが命中率がいいかもネ。
大橋巨泉の番組(11PM)でボーリングの解説を毎週やっていて、それで興味を覚えた私は例によって教習本を購入。知識だけはバッチリでした。ボーリングはしないが、スコアの書き方理解して、なぜ10フレームが3枡なのかも、わかりました。それで、4時限が休講だとそれに昼休みを加えて2時間あるので友人と近くのボーリング場へ行ったものです。 2013-02-07記
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平凡パンチ1971年11月22日号より
平凡パンチ 1971年11月22日号より
サンドラ・ジュリアンの肢体を総点検

今のようにDVDやビデオが無かった頃は、エロスの供給先は映画か雑誌、写真集でした。
当時、アメリカのPLAYBOYなどでそれこそヘア解禁になって数年だったと思いますが、日本ではそのような状況は全く無く、各大手映画会社が、裸になれる女優を捜しては映画を作るか、コンテスト形式のヌード映画女優を捜していたのだと思います。そんな中に現れたのが、一番の美女であったサンドラ・ジュリアンだと思います。
「いやもうものすごい人気なのだ。彼女が東映映画「現代ポルノ伝・先天性淫婦」出演のため先ほど来日、ポルノ映画旋風を巻き起こしたのをキミは知っているだろう。放っておく手はない。美しきものをどん欲に追求するのがマスラオのつとめというものだ。ポルノ女優インターナショナル・チャンピオン、サンドラ・ジュリアンの周辺を徹底的にあらってみた。
凡天太郎氏。ボクの位置はスペシャル・ボックスで、いちばん見たいものがすぐ目の前にある”見せてもらいましたよ、バッチリと。カミの毛と同じでブロンドだったね”
なあんだ、今では、色ぐらい分かるぞというようなものですが、この当時の記事としてはこれを呼んで世の男性は、悶々、ドキドキだったわけでしょう。
凡天太郎は、当時有名な彫物師でした。
サンドラはたいへんフランス人らしいフランス人だと思いますね。体つきなんかも、フランスの女性は一般的に小柄でやせてますね。だけどとっても美人だし、絵になるヒトだと思いましたね。それともうひとつ、非常に気だてのいいコだと思いました。というのは11PMの中で各パートの最後に文字を書いたカードを出すんですが、いつもやってるジューン・アダムスが結婚してハネムーンにでかけたためこまっていたんです。そこで彼女に頼んでみたらあっさり引き受けてくれました。ふつう外国人は契約にない仕事には難色をしめすのですがね。とサンドラの気だての良さをしきりに強調するのは11PMで彼女と共演した三木鮎郎氏・・・
うーん、このジューン・アダムスの結婚というのは、かの巨匠ですか・・・このページのトップへ移動
1969 1970 1971 1972 1973
(青い文字は、雑誌本文記事です)
昭和の時代を見るために参考になる図書を紹介します 昭和の雑誌を主に載せています。男性誌が多いです 平成の雑誌を主に載せています。男性誌が多いです 10年ごとの年代の年表です

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