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1973年(昭和48年)の出来事について

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サンデー毎日 1973年1月21日号より
芸能界ことしのスターを占えば

学生時代の私は、映画、演劇はほとんど見た事がなかった。日活も東映も洋画も歌舞伎もというわけなのですが、平凡パンチやプレイボーイなどの情報から、今思っても当時のことが断片的にでてきます。特に、女優さんというものについてはテレビ以外は、読んだ知識だけです。
上昇株伊佐山ひろ子
−−映画、テレビは・・・。
−−映画は昨年の収穫だった梶芽衣子、伊佐山ひろ子らに期待するが。
−−どうも消極的だな。
−−梶は「女囚さそり」で一躍脚光をあびた。「銀蝶渡り鳥」なんてシャシンに出ていたころはさっぱりだったが「松島ナミ」にふんしてからはバツグン。あの怨念のこもった目つきはすごい。ただ、セリフと動きが少なく、じっとにらんでおればOKというような役だったから、他の映画にでればどうなるかだ。
−−伊佐山ひろ子はポルノ映画での活躍か。
−−「白い指の戯れ」に起用したのだが、ポルノファンにいわせると、ちょっとぬけているようで、アレが好きだといっているような表情がたまらないというんだ。
−−どうも次元が低くなったな。
−−しかし、清純などを売り物にしちゃスターになれないよ。伊佐山など、だからもっともナウなスターだ。
−−「国盗り物語」で濃姫をやる松坂慶子は絶対、人気急上昇だね。それから昨年「旅の重さ」のオーディションに受かった高橋洋子、これも間違いなくスターになる。NHKの連続テレビ小説の主人公を演じるし。
−−他には。
−−岩井半四郎の娘の仁科明子。昨年NHKの銀河ドラマ「白鳥の歌なんか聞こえない」でデビュー、勘のよさが強みだ。
記事のなかで新人女優に関しての記事を載せました。こうしてみると、さすがに皆さん残っておられるようですが。私は、仁科明子が一番当時だったと思います。(美人度だけでなのですが・・・)
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週刊朝日 1973年6月1日号より
「次はこの娘をぬがせます」

ショッキングな記事が週刊朝日に載っていました。いかにもガセという感じの南沙織についての記事です。実は、由美かおるの次は誰かというのは、当時少しワクワクしながら待ったものでした。
由美かおるのヌードで味をしめた松竹が、「同棲時代」第二弾をつくる。はじめ有名タレントを起用して脱がせ、”第二の由美ブーム”をねらおうという方針で、いしだあゆみや南沙織に声をかけて断られた、なんていうウワサもあったが、結局十八歳のモデル高沢順子に落ち着いた。相手役は歌手の本郷直樹。
高沢順子という名前になじみは薄いが〜お月さまぽっかり、お魚になったわたし・・・の「トートー・ホーローバス」のテレビCMで、お風呂に入っている女の子といえば、思い出す人も多いだろう。
十七日の発表記者会見で、初対面のふたりは、さっそくキスさせられた。はじめ、カメラマンにかこまれ、おでこからほっぺたへキスされてテレる高沢に、松竹の宣伝課長氏、冷たく
「これは仕事だよ、まじめに。次は唇と唇を・・・・」
彼女、脱がされるのも割り切っているふうだ。
「由美以上のすばらしいヌードを見ていただく」と、松竹も前宣伝をあおっている。
こう書いてみると全く南沙織は関係ないのですが、当時デビューから2年というと、・・私は好きでしたが、もう世間では新人ではなくちょっと微妙な位置にいたころかなぁと思います。
高沢順子は、男性誌にヌードがばんばん載っていたような(この映画の)ことを思い出します。
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週刊サンケイ 1973年8月24日号より
歌も映像”解禁”に右へ習へ

放送禁止歌というと「黄色いサクランボ」しか知らないのですが、このコラムには61曲もが解禁となったとありました。へぇー!と、ボタンです。
民放連が放送禁止歌を大量に解禁した。なにしろ映像のほうでは、深夜のショー番組に女性のヌードが堂々とカッポするかと思えば、勢い余ってヘアもバッチリという当節だけに、歌のほうだけは昔のままでは、業界からの突き上げも激しさを増すばかり”流行のサイクル”も昨今では、十年一昔ならぬ五年一昔というバカ早さ。
それに価値観もまるで変わってしまうから、五年前の放送禁止歌など別にどうということも・・・というわけで、昭和38年から昭和42年までに放送禁止にした97曲を再審査、うち61曲に放送OKを出したもので、民放の歴史でも、こんなに大量の解禁は初めてだ。
61曲のうち、あの朝丘雪路オバサンの歌が実に7曲もはいっている。かつてはセクシーすぎるといわれたその歌い方も、今聴きゃあ、ホント、たあいのないシロモノ。
悪のりにかけては最右翼のNETテレビ「23時ショー」が、さっそくこの新ネタに飛びついて「特集!放送禁止歌」(8日)などとブチあげたが、雪路サンの例でもわかる通り、実質的にはねえ・・・・。
ここに書かれているとおりだとすると、朝丘雪路はこのころでオバサンだったわけですが、今でもオバサン状態でいるのはすごいことです。
それで、どういう歌だったのかというと全くわからないのです。また別の資料があったときに書いてみます。今は本当にナゾにつつまれたままです。消化不良。
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週刊読売 1973年9月8日号よりnew
歌だって聴かせるわヨ
田中真理がポルノ抜きのレコーディング

「警視庁から注目されております、田中真理でございます」と会う人ごとにいう日活ロマンポルノのエースが、今度は歌手の仲間入りをした。
「私くらい音痴はいない」
と自認する田中だが、映画をしばらく遠ざかり、テレビ「白い影」(TBS系)で歌手の役をやっており、このほど、その「白い風」(作詞・小谷夏、作曲・小室等)のレコーディングをやった。
かつて東映ポルノの杉本美樹が、レコード吹き込みのさいピアノの上でヌードを披露したものだが田中は全然脱がず真剣に歌っていた。さてその出来ばえは----。
「歌に自信がないという彼女のそんな部分に既成の歌手にないフレッシュさを感じた。自信がなくても歌えるようになったつもりだったが、ちゃんと彼女自身のフィーリングでこなしていて、さすが女優だと思った」と、小室はご満悦である。
視聴率二〇%を超える「白い影」にあやかって、レコードのほうも売れますか? 発売はキングレコード。(記事終了)
このころは、何かと話題づくりに裸がよく利用されていましたが、さすがに時代の闘士、反逆の田中真理、服を着てのレコーディングだったようです。それにしても、小室等ですか。すごいです。どんな歌だったのだろう?キングレコードだから、また色っぽい色っぽいCDでオムニバスに入っているかもしれません。 2012-11-04記
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週刊読売1973年9月8日号より
平凡パンチ 1973年12月17日号より
しみじみ泣かせたい 年上の女 平山洋子

この号の中綴じの色刷りページに、平山三紀の姉さんという平山洋子の歌手デビューの記事が載っていましたが、平山三紀におねえさんがいることすら知りませんでした。
あこがれ年上の女だった西田佐知子が人妻になってガックリしてたら二代目が登場、もと松竹女優の美人歌手が「死ぬまで一緒に」で、ポリドールからデビューした。
本名   平山園枝
ニックネーム   ピーコ
生年月日   昭和22年5月5日
出身地   東京都大田区
学生生活   小学校時代は、すごくオシャレだった。付け毛でポニーテールにして、男のコの視線を意識。勉強もガンバッテ、クラスで3番以内を維持していた。が、中学、高校と進むにつれて下降。
中学では、バレーボール部のレギュラーで魔女気取り。バレーにファイトを燃やしたのは家庭が厳格で、映画を見ることはおろか寄り道もできなかったせいもある。
「今でも悔いが残るワ」
と、マジメすぎたオトメ時代を悔やんでいる。平山三紀の実姉。
なりたかった職業 スチュワーデス
キッカケ   高校を卒業してからブラブラしていたが、7月ミス・エールフランス・コンテストに応募して優勝。松竹映画の女優になる。芸名は園江梨子。デビューは「銀嶺は恋してる」。松竹に5年間いて、出演作品は約30本。深作欣二監督の「恐喝こそわが人生」などが代表作。
デビュー  今から2年前に松竹をやめ、フリーとして、テレビドラマに出演していたが、仕事のカベにぶつかっていた。ことし2月、ポリドールからレコーディングの話があり、歌手転向を決心。
ポスト西田佐知子をめざして、9月「死ぬまで一緒に」で、デビュー。有線放送を中心に、ちょっとくずれた女のムードで、男心をキューンと刺激している。
・・・・
ボディチェック  B85cm W58cm H88cm 体重45kg 身長163.5cm 足23cm
写真から受ける印象は、非常に美人です。小さな写真ですと純アリスに似ているように思います。映画にも結構出ていたようですが、ここにはほとんど資料がありません。いちど、レコードは聴いてみたいものです。
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週刊朝日 1973年12月28日号より
流行歌 歌謡戦線「左きき」異常 崩れるヒット曲づくりの神話

1973年といえば、もう大学生だった私は南沙織を知り、早くLPがでないかなといつも待ち遠しくしていたころでした。引退の撤回とか、いろいろあったのですが、友人などには流行歌手にうつつを抜かしてという感じで責められることもあったと記憶しています。まあ、そういう友人たちも、実はフォークという歌謡曲を聴いてたようですが・・・
今年の流行歌の前半をさらったのは、ぴんからトリオだった。関西のコミック・トリオだったこの三人が、結成十年を記念して作った私家版のレコードが、関西地区の有線で人気を集め始めたのは昨年秋ごろ。それが一般発売になって爆発したのが昨年暮れ。
・・・・・
レコード会社はきそって、コミック・グループに演歌を歌わせてひと儲けをたくらんだ。その結果は、やや小型のドジョウは何匹かいたが、期待された演歌ブームはこなかった。
やや小型のドジョウってあるのですが、どんな曲だったのでしょうか。ド演歌は、このころも全く聴かなかったので、ちょっと想像もできません。
傾向としてとらえるなら、フォークの拡散とでもいえる現象が今年あった。ガロの「学生街の喫茶店」「君の誕生日」など、チェリッシュの「若草の髪かざり」「避暑地の恋」など、それにチューリップの「心の旅」といった作品が、フォークの匂いを残しながら、歌謡曲の中にその座を確保した。高石友也や岡林信康といった連中によって開拓された日本のフォークソングが、ようやく”ふつうの人たち”の間にも根をおろしたとといえる。
フォーク畑からの歌で見落とせないのは、井上陽水の「心もよう」や、南こうせつとかぐや姫の「神田川」だ。この二つの作品は、テレビを通さずに出てきたヒット曲ということに意味がある。昨年活躍したよしだたくろうも、テレビを拒否してヒットを生んだ。ヒット曲におけるテレビの神話は、いま崩れつつある。
井上陽水とかぐや姫の二つに共通するのは、”優しさ”だ。
・・・・・
ステージから井上陽水やかぐや姫が、身辺雑記ふうに客席に語りかけるとき、客席からは「実はオレもそうなのさ」というつながりが生まれるのだ。この連帯感はテレビからは決して生まれない。
”見せる歌手””カワイコちゃん”の天下
テレビのほうは、金井克子、夏木マリといった”アクション歌手”と、十四歳の中学三年生、山口百恵、同じく中三の森昌子、桜田淳子、「私の彼は左きき」の麻丘めぐみら、”見せる歌手”の天下だった。西城秀樹、郷ひろみ、野口五郎など男性歌手にしても、歌というより、そのアクションで売った印象が強い。
この”アクション路線”とでもいうべき歌づくりの傾向は、テレビが歌を広めていく媒体である以上、やむを得まい。流行歌はようやく、テレビを積極的に利用する手口をひとつ確立したと考えてもいい。しかし、”アクション路線”の歌は、ほとんど例外なしにテレビ局の傍系音楽出版が制作にタッチし、レコードが売れたら印税がころがり込むというシステム。つまりテレビ局のアルバイトだ。このシステムが本当に”歌”を生み出せるかどうか、新しい年に問い直されるだろう。(伊藤 強)

あっさりと”朝日”は73年の歌謡曲の傾向を書いているのですが確かにその通り。また、今も、強力プロダクションが牛耳っているような気がします。35年前も今も、歌は媒体がテレビ、CD、インターネットと変わっていきますがその裏のプロは、変わりようがないのかも知れません。
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昭和の時代を見るために参考になる図書を紹介します 昭和の雑誌を主に載せています。男性誌が多いです 平成の雑誌を主に載せています。男性誌が多いです 10年ごとの年代の年表です

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