懐かしい事各年一覧へ(昭和)
1968年(昭和43年)の出来事について

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週刊プレイボーイ 1968年1月23日号より
11PM「寝すがた」

11PMは、一番強烈に覚えているのは、ホストが大橋巨泉に藤本義一です。しかし、このプレイボーイのTV紹介欄にかいてある、曽我廼家明蝶がホストというのは、全く覚えていません。大阪製作だったのでしょうけれど・・・
寝相鑑定家の八木喜三郎氏、服飾デザイナーの立亀長三氏、ドクター木崎国嘉氏が寝相にまつわる話題をひもとく。そのほか、寝るための生活美学やねまきショーを紹介。ホスト・曽我廼家明蝶、ホステス・緑魔子。(日本・13日・午後11・15)
11PMでよく見たのが大橋巨泉のときの、ボウリング教室のようなものなのですが、これでボウリングをしたくなって、まだまだ繁華街へ一人では出かけられない時代に、ボウリングをしに行きました。(友人とですが)
当時はまだピンにヒモが付いていたボウリング場もあったことを覚えています。
よく考えれば11PMは、ン十年も続いた長寿番組ですから、放送の一本一本を覚えているわけはありません。印象は、水着と裸とホストのかたという事になります。
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週刊プレイボーイ 1968年1月30日号より
奈美悦子にお色気問診 ヤンチャ・セブンティーン

奈美悦子といえば、西野バレエ団の一員。由美かおる等とは、当時人気を分け合ったかたです。今は私はバラエティ番組でしかお顔を見ないので、あまり活躍されていないのかなと思うわけですが、このころは本当に可愛くて仕方がないという風です。
正月、年賀状が2800通舞い込んだ。その90%が大学生ファン、西野バレエ団5人娘の中でも、あえて推奨に値する特定銘柄。
ただし純情可憐を連想するのはマチガイ、「プレゼントされるなら現金が最高」、「結婚するならギターで禁じられた遊びがうまく弾ける男性が絶対条件」なんてことをドライにいう。ガッチリ屋のセブンティーン。
・・・・
カマトトか可愛いベビーか
おへそを出して「レ・ガールズ」のレッスンに汗を流す奈美
・・・・
いま突然一億円転がりこんだらどうする?
全部貯金しちゃう、利息だけでもすごいでしょう。私、前にファッション・デザイナーになりたかった時期があるから、洋装店もやってみたいな。
ファンからどんなプレゼントされたら一番うれしい。
犬の縫いぐるみやお人形なんかいただくの。それもむろんうれしい。でもどうせもらうなら現金がいいわね。
まあ、たわいのない質問にわらってこたえるようなことばかりがのっています。お色気問診のかけらもない記事ですが、17歳の美人ダンサーに、メロメロになってしまった男性は当時沢山いたことでしょう。私は普通にみていたように思います。テレビは白黒でしたか・・・?
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サンデー毎日 1968年2月4日号より
読者が選ぶ’68茶の間の人気タレント

このなかからお選びください
てなもんや三度笠 藤田まこと でっかい青春 竜 雷太
泣いてたまるか 中村賀津雄
渥美 清
竜馬がゆく 北大路欣也
お嬢さん 生田悦子 船場 扇 千景
コメットさん 九重佑三子 娘たちはいま 吉永小百合
ある日わたしは 松原智恵子
川口 恒
ゆば 林 美智子
みだれがみ 渡辺美佐子 七人の刑事 芦田伸介
皇女和の宮 佐久間良子 ケンチとすみれ 藤岡琢也
桃太郎侍 尾上菊之助 秘密指令 883 川口 浩
一匹狼 天知 茂 なかよし 倍賞千恵子
栗原小巻
佐藤オリエ
おせん捕物帳 重山規子 意地悪ばあさん 青島幸夫
栗塚 旭
土田早苗
銭形平次 大川橋蔵
お嫁さん 尾崎奈々 三匹の侍 平 幹二朗
加藤 剛
長門 勇
野次馬がいく 松方弘樹 パパ長生きしてねッ! 小林桂樹
司 葉子
花紋 新珠三千代 二十四の瞳 亀井光代
花しぼり 池内淳子 風の中にひとり 小川真由美
さくらんぼ 星 由里子 文五捕物絵図 杉 良太郎
愛と哀しみの時 藤 純子 おもろい夫婦 中村玉緒
とぼけた奴ら 高松英郎 ザ・ガードマン 宇津井 健
太陽野郎 夏木陽介
北原真紀
素浪人月影兵庫 近衛十四郎
平四郎危機一発 宝田 明 春一番 京 マチ子
旅路 日色ともゑ      
1968年2月の記事ですから、実際は’67年の人気タレントを決めようというものです。
私もこのころはまだ高校生。テレビ番組はわからないものもありますが、タレント名を読むと顔が浮かんでくるのが、もう年老いた証拠ですね。恐ろしいです。
そして、番組のいくつかは、この間見ていたかのような記憶が湧いてくるのが不思議です。
唯一全く思い浮かばない方が、「北原真紀」です。どういう方であったのか、wikiで調べて見たいと思います。
(尚、1月20日現在、1位 日色ともゑ 2位 宇津井健 2位 吉永小百合 4位 藤田まこと 5位 青島幸夫 6位 北大路欣也 7位 大川橋蔵 8位 芦田伸介 9位 藤岡琢也 10位 近衛十四郎 となっています。)
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2013-04-30記
週刊朝日 1968年2月9日号より
喜劇映画づくりに各社、猛ハッスル

昔は良かったというのは、歳もとってきた証拠でしょうけれど、映画では駅前シリーズ、クレージーキャッツシリーズetc.をたまに見ていました。親につれられてか、自分からいったのかどちらもあったのかは定かでないのですが、面白かったように記憶しています。
「ことしは若い人が関心をもつ喜劇映画を増産する」と松竹・城戸社長が製作方針を発表すれば、東映・大川社長も「喜劇路線を大拡張する」と言明・・・。
かくて、ことしの日本映画界はあげて喜劇映画づくりに狂奔しそうな雲行きとなっている。
喜劇映画といえば、昨年前期あたりまでは東宝の独壇場。森繁久弥、三木のり平、フランキー堺、クレージーキャッツなどの喜劇タレントを擁し、「映画収入の三分の一は”社長””駅前””クレージー”の三大シリーズで稼いでいる」と営業部を豪語させたほどだった。ところが昨年ごろから、この”東宝独占ムード”が破れはじめた。そのきっかけをつくったのが、ザ・ドリフターズ主演「なにはなくとも全員集合」(松竹)、東京ぼん太主演「東京の田舎ッペ」、渥美清主演「喜劇・急行列車」(東映)などの大ヒットである。
・・・・
「不景気になると喜劇がうける」とはよくいわれる言葉だが、とすれば、ことしはやはり不景気ということかもしれない。
そのほかに犬塚弘、なべおさみ、小沢昭一、野坂昭如原作物とかいろいろあったようです。このあたりは見ていないですね。日本映画よりは、映画をあまり見なかった私ですが洋画の方をみていたようです。
ほとんどは、DVDになっていますので老後の楽しみとして昭和中期の喜劇映画を見る事というのも加えたいと思います。このページのトップへ移動
週刊朝日 1968年2月9日号より
ゲバルトしよう

私の高校時代にはあったゲバルトという言葉の語源(?)とまではいかないまでも、その使われ方が少しだけ書いてあります。ゲバルトといえば闘争すると思っていた私でしたが、週刊誌では当時何でも激しい事をするのはゲバルトって言っていたのかも知れません。
佐世保事件で、三派系全学連が機動隊に突っ込むのを「それ!ゲバルト!」と叫んだのがこの新語の始まりである。そもそもはGEWALTなるドイツ語。「権力」「威力」「暴力」などの意。それが、子どものケンカから夫婦ゲンカ、パチンコ屋の客と店員の言い合い、犬がほえるのまで、すべて「ゲバルト」になってしまい、ついには人間がちょっと激しく行動することを全部「ゲバルトしよう」となった。
ゲバルトうーん、なんでもかんでもゲバルト。そう、ゲバルト・ローザ、雰囲気的には荒っぽいがその開始である官憲への暴力とはなかなかとらえられないですね。高校、大学時代にもゲバルトなる言葉はちょくちょく出てきましたが(雑誌に)、次第に学生運動が下火になってくると忘れられていったようです。
大学時代には、ドイツ語をとっていたけれど、とりあえずはドイツ語のくちでしたからほとんど覚えていません。というより、勉強してなかった。
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週刊プレイボーイ 1968年2月20日号より
マカロニ・007が登場 主演はコネリーの実弟

アメリカの専売だった西部劇をまんまと自分のものにし、マカロニ・ウエスタンとして見事ブームに乗せたのはイタリア映画界。こんどまた、大当たりシリーズ”007”を頂戴しようという映画を制作した。題して
「キッド・ブラザー作戦」。
題名からして、手に汗にぎるスパイ・アクションだが、びっくりさせられるのは出演者陣である。
ショーン・コネリーの兄弟についての情報は私の頭の中には全くなかったのですが、こういう映画が作られていたのは驚きです。007は、中学時代に見に行きました。しかし実はというとTVやビデオで見たもののほうが多いです。
マカロニ・ウエスタンも高校時代であるので、見なかったですね。
まず主演は、ショーン・コネリーの実弟ニール・コネリー。かつて、ショーンにそっくりな実兄が映画入りして話題を呼んだが、似ているという点ではこのニールの方が一枚上だ。
さらに、ボンド・シリーズでMに扮しているバーナード・リー、ミス・マネベニ扮するルイス・スクスウェル、それに「007/危機一発」に出演のダニエラ・ビアンキ、「サンダーボルト作戦」でラルゴを演じたアドルフォ・セリ、「007は二度死ぬ」にチョイ役で出演したジェームス・メースンとのロマンスで一躍名を売った日本女優ヤマ・ヤスコ---といった助演陣の顔ぶれである。
共演陣は、まことに素晴らしいです。ダニエラ・ビアンキは美しい方でした。なんといってもイタリアの女優陣は好きでした。日本女優の”ヤマ・ヤスコ”はどういう方であったのか?
それにしても、ここまで徹底して”007”を意識して作られたた映画の題名が「キッド・ブラザー作戦」とは、なにやら人を食っているじゃないか。マカロニ・ウエスタン同様、御本家の人気を、掻っさらうかどうか。(記事終了)
さて、映画の入りはどうであったのでしょうか。気になるところですが、この記事を見るまで知らなかったのですから、人気のほうは残念な結果に終わったのでしょう。2012-11-01記
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週刊プレイボーイ1968年2月20日号より
宝石 1968年3月号より
わたし、早く結婚したいの  女フェスティバル(15) 伊東きよ子

「宝石」は、光文社発行の総合月刊誌でした。当時は高校生であったためこういう月刊誌は買った事もなかったのですが、古本市で安かったので買ってみました。ここには、始めのモノクログラビアページに伊東きよ子がのっていました。あの「花とおじさん」の大ヒットを覚えています。今でも好きなうたです。久しぶりに写真をみて、ちょっと感激です。
本名は精子(きよこ)。昭和22年生まれ、21才。40年12月、フォークシンガーとしてデビュー。
41年、アメリカのボーカル・グループ「ニュー・クリスティ・ミンストレルス」来日のおり、認められて渡米。NBCテレビに出演して好評を博す。
帰国後、渡辺プロに所属し、コロンビア専属となる。ヒット曲に「花と小父さん」「リンゴの花咲くころ」などがある。
・・・・・
それにしても、フォークシンガーは日本ではなかなか大成しない。それは、日本の民謡がちょうどそうであったように、フォーク・ソングも、一つの民族の長い歴史を吹き抜けてきた風のようなものだからであろう。アメリカで「心から歌う」というフォークソングの神髄を学んだ彼女は、きっと”日本のフォーク・ソング”を歌い続けてくれるだろう。
「早く結婚しちゃいたいな。でも、一ヶ月に100万円ぐらい稼ぐ人じゃないといや。百万円あったら何買おうかな・・・」大人と子供が同居しているようなことをおっしゃる。アメリカ的センスと日本人の心の同居、大胆さと恥じらいの同居・・・チャンポンの魅力とでも呼ぼうか。
昭和40年にフォークシンガーとしてデビューとありますが、私はアメリカのグループで活躍して「花と小父さん」を歌ったという記憶しかありませんでした。
ここにあるモノクロの写真は、網タイツ姿とかかなり大胆ですが、構図はいかにも昭和中期のカットという古い感じのものです。これ以降タレントさんの写真は、どんどん変化していくのですがまだまだ、写真にも、芸人をうつすという感じが残っています。
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週刊プレイボーイ 1968年3月5日号より
受験生の悩みを歌う 新アングラソングが大ヒット!

軽快なメロディーで楽しくなるような悲しくなるような歌が、ラジオから流れてきました。受験生ブルースです。私ももうすぐ受験生なろうかというときにこの歌がヒットして、うーんと考えさせられました。
「おいでみなさんきいとくれ ぼくはかなしいじゅけんせい・・・」という文句ではじまる”受験地獄”をテーマにした新しいアングラソングが、いま大変な人気を呼んでいる。
タイトルは「受験生ブルース」いささか発売の好機をいっしたというものの、大阪の寝屋川高校3年に在学中の受験生中川五郎君が作詞した新鮮な曲だ。
・・・・
あれよあれよというまに、若者たちのハートをとらえ、今では受験生の愛唱歌(?)になってしまった。・・・フォークシンガーの高石友也もこの曲が気に入り、メロディを自分でつけて「11PM」で歌ったところ、全国から問い合わせが殺到・・・・・
自分の悩みを素直にぶっつけているだけに、プロ作詞家の机上の詞にはみられない切実さが全編にみなぎっている。
高石友也といえばこの曲か「・・赤いヤッケ」なんですよね。ちなみに、私の高校には、高石友也は演奏をしにきてくれミニコンサートを開いたのを覚えています。が、しかし受験生ヒット後だったのか前だったのか覚えていません。このページのトップへ移動
週刊プレイボーイ 1968年3月12日号より
ヌード女優に?にCBE勲章を与えた
エリザベス女王
イギリスのエリザベス女王は、このほどバッキンガム宮殿に女優のバネッサ・レッドグレーブを呼び、男の<ナイト>に相当する<デイム>の位を与え、CBE勲章を授けた。
「これでわが家は、父(マイケル)と私の2人が爵士になれたわけで、大感激ですわ」
バネッサは、ダイアのネックレスをもらった以上のよろこびよう。
バネッサは、なるほどこの2〜3年の間にメキメキ売り出した大女優。しかも「ビビアン・リー以来の、ハリウッドのドルにころばぬ大もの女優」として英国民の間に独特の人気がある。
しかし、ヌードで映画出演したり、派手な離婚スキャンダルをばらまいたこともあり、およそ”貴婦人”のイメージとは遠い女性だ。
バネッサ・レッドグレーブといえば私は、なんとなく上品な感じのいい女優さんだと思っていましたが、こんな否定的なイメージをいだかれていたんですね。
CBE勲章というのは、一昨年ビートルズに授与されたMBE勲章より格が一段上で、戦前の日本でいうならば子爵に相当する。
そこで、ロンドンっ子たちはタメ息をつくのである。
「ミニ・スカートの発明者のつぎに、エレキ・バンドの気ちがい連中。そして今度はヌード女優か。ポンドの価値と同様に、わがイギリスの勲章も暴落したもんだ」(記事終了)
ミニ・スカートの発明者といえばマリー・クワント。高校生のころにミニスカートが流行っていたわけですが、大学に入った頃は、もうミニブームは去りかけて、マキシというロングスカートがはやりだしていました。当時は確かに、勲章の権威も地に落ちたと、イギリスでは大騒ぎらしいとニュースでやっていたような・・・・。
日本の勲章は、いろいろな職業のかたへいろいろな功績で、授与しまくりですのであまり権威がないと思うのですが、大英帝国での勲章はそれこそ・・・・というわけです。 2012-11-20記
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週刊プレイボーイ1968年3月12日号より
週刊アサヒ芸能 1968年3月24日号より
歌謡界も企業イメージを
芸能 多湖輝

歌謡界がいま血眼になって追いかけているのは、いわずと知れたアングラ・ソングである。
東芝がザ・フォーク・クルセイダーズの「帰って来たヨッパライ」で、公称二百万枚を売りつくしたとなると、他社も黙ってはいられない。
「帰って来たヨッパライ」は高校時代ラジオで毎日どころか毎時間のように流れていたけったいな曲でした。学生のバンドということは知りましたが、私にとっては、それ以上の興味もなくめちゃくちゃヒットした曲ということで終わりました。
ビクターは、さっそく女ばかりのピンキー・チックスに女性版の「ヨッパラッタお嬢さん」を吹き込ませた。同様に、ビクターの「受験生ブルース」が大ヒットすれば、さっそく、コロムビアで、「落第生バンザイ」を吹き込ませるといったぐあい。キングでも、テイチクでも、似たりよったりの企画を進行中なのは、いうまでもない。
高石ともやの「受験生ブルース」は知っていますが、「ヨッパラッタ・・・、落第生・・・、」は、まったくわかりません。
それにしても、なんたる厚顔、なんたる無恥ぶりであろうか。柳の下のどじょうをさがしまわるのも、いい加減にしてもらいたい。こんなことをしていたのでは、おたがいにイタチゴッコみたいなもので、歌のライフ・サイクルは短くなる一方だし、企業イメージなど、育つはずがない。
この記事の作者多湖輝といえば、当時「頭の体操」シリーズで世間には知られた方でした。「頭の体操」は私も購入していて、うんうんと唸った記憶があります。
企業イメージという言葉をここではだされていて、まだまだそういう概念が無かった時代でありましたが、多湖先生は、たしかな先生でありました。
ここらで、そろそろ自社の企業イメージを大切にする会社があらわれたとしても、ちっとも不思議はないとおもうのだが、いかがなものであろうか。
ご存じの方も多いと思うが、タバコにしてもビールにしても、においが違い、味が違うと思うのは、イメージがしからしめるところであって、本当のにおいの差、味の差はそれほどおおきいものではない。
筆者は、かつて、ビールについてブラインド・テスト(ブランドをはずして、銘柄をあてる、めかくしテスト)を試みたことがあるが、やってみると、おもしろいいほど当たらない。
おれは三百六十五日、Kビールを飲んで味覚には絶対自信がある、といっているような愛飲家を数名まねいてテストをやってみると、当たりはずれは決して確率以上にでることはない。
ここで、たいていのテング連はさすがに鼻柱をヘシ折られ、自分の味覚や嗅覚のたよりなさを、いまさらのように思い知らされるのだが、おもしろいのは、このあとの運びである。
テストの終了後、しばらくそのままに放っておいて、かくしマイクで彼らの声をとってみると、ほとんどハンで押したように、話題がテストの方法に対する批判となり、
「こんなやり方じゃ、当たりっこないですよ」
「yっぱり、冷たいやつを、思い切り、グーッと一気に飲まなきゃね」
「そうすりゃ、絶対当たりますよ。当たらないはずがありませんからネ」
といったような会話がかわされ、トドのつまりは、
「やはり私は、明日から、Kビールを飲むことにしますよ」
と、自分のイメージを再確認して帰って行くことになる。
この後に企業の理念、イメージを消費者にどう知らしめるかという努力がされるようになっていったと思います。まあ、この記事が発端であるとは全く思わないですが・・・・。
私も入った会社が丁度その時に、CI、CIとうるさかったのですが、ほとんどは、のんきに会社のマークを替えるんだとか思っていました。
こんな例を考えるにつけ、イメージがいかに強力に、人間心理を左右するものかと驚かせられるが、レコード会社でも事情はまったく変わろうはずがない。
A社は高級、B社は大衆むき、C社は専門家むきなどと、現在でも、多少のイメージはでき上がっているといえようが、これをもう少しはっきりさせて、イメージで指名買いしてもらえるまでにするには、いまがチャンスではあるまいか。いたずらに、他社の掘り当てた金鉱あらしをせず、独自の個性的な魅力あるイメージを想像することを、切に望むしんだいである。(記事終了)
コカコーラがマルからシカクになり、電気、電機会社のステレオ装置がみな、ボストン、やオーレックス、テクニクス、などといった名前がついたような時代でありました。
2013-02-16記
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週刊アサヒ芸能1968年3月24日号より
週刊プレイボーイ 1968年3月26日号より
サイケな遊び場 ”アングラ東京”

おどろおどろしい響き、サイケ、アングラ、ヒッピー、ハプニング、こういう言葉は確かに60年代後半週刊誌の見出しを飾っていましたが、当時高校生だった私にとっては、全く文章の上での事であったということです。そうです、周りを見ればアングラもヒッピーもなにも無かったですね!
アングラ喫茶にアングラ・スナック、アングラ劇団にハプニング集団、そしてそれに群がるアングラ族。新宿の街からブームがはみだして、今やアングラは東京中に蔓延している。オツにすました東京の街もひと皮むけばサイケなムードがいっぱいだ。そこでキミにガイドする”アングラ東京”全調査・・・・
女性がおごるU・G(アングラ)スナック
「ちょっと気のきいた女の子なら「デートだったら銀座はいやよ。新宿で」と注文をつけるね。新宿はサイケなアングラの町だ」・・・・
アングラ芸術の名士一覧
ご存じ寺山修司の劇団「天井桟敷」・・・
演出の萩原朔美(22歳)は、詩人・萩原朔太郎の孫。
・・・・
新宿アングラ芝居のもう一方の雄は唐十郎ひきいる「劇団状況劇場」・・・・
爪生良介がひきいるアングラ劇団「発見の会」の本拠は新宿からほど遠からぬ信濃町のお寺。・・・・
池袋の仙行寺の住職が始めたのは「演劇集団日本」代々木の高速道路下には劇団「変身」の佐々木小劇場。六本木には「自由劇場」。さらにブームにのって「黒の会」暗黒舞踏団「カルメラ商会」が誕生した。・・・・
アングラ女のセックス・ハプニング
・・・・
みやたはるみはハレンチガール、昨年の夏若い根っこの会の会場に全裸で飛び込んで、根っ子の男の子を素っ裸にしてせまった。・・・・
「なぜハプニングを新宿でやるかって、そりゃ、他の町じゃ皆、夢でもみてるようにキョトンとしてるだけだけど、少なくとも新宿じゃびっくりしてくれるからよ」
つまり、新宿はアングラに対していちばんよく反応する街ということになるのか。
アングラはすっかり東京の新名所になった。
今こうして読んでみてフーンそうだったのかとか、思わないですね。実際大阪に住んでいた私としては、何の事やらわかりません。呑気に勉強していた頃です。
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週刊プレイボーイ 1968年3月26日号より
グループ・サウンズはまだまだ花盛り・・・

高校時代は、音楽に根っから親しむという事がなかったわけですが、それでも一応電リクや葉書リクエストは勉強しながら本を読みながら聞いていました。ポップスから歌謡曲までが取り上げられるラジオですから当時のヒット曲というものには親しみがあるのですが、今で言うカルト的な音楽や、歌手はちょっと?なじみがないわけです。
毛色の変わった東西2グループの話題。グループ・サウンズあと1年説などもとびだして話題にはことかかないグループ・サウンズだが、では、実力1本どこまで世界に通じるかというと怪しいもの。
答えはむしろ否定的といってもよいだろう。
昨今のリズム&ブルースのブームとあいまって、一躍クローズアップされ、世界に通用する唯一のグループとまで絶賛を受けているラッキーなグループが現れた。
「いとしのジザベル」で躍り出た混血児ばかりの5人組、ゴールデン・カップスがそれだ。
人気投票ではベストテンにも入らないような地味な存在だが、音楽評論家諸士の評判がすこぶるよろしい、・・・いわゆるクロウトうけするというグループなのである。
それだけに腕は確かなもの。ジャズ喫茶などで彼らのステージがあると客席には必ず他の、しかも人気では彼らよりずっと上のグループのメンバーの顔がみえるというから面白い。
ゴールデン・カップスというともうこの頃に評価は高かったわけですが、私としては「いとしのジザベル」しかしりませんでした。あともあとレンタルCDの時代になってグループサウンズを借りて聞いたりしたぐらいで、恥じ入るばかりです。もうひとつグループがのっているのですが、「リバーバーズ」という英国の新人グループなわけですが、私にしては、はぁ?とまったく知らない、もちろん当時も聞いた事もないグループなわけです。そして、女性のグループときていますから本当に謎です。
そして、この号の全米ヒットパレード1位が、「LOVE IS BLUE」です。恋は水色そういえば、よく流れていました。ポール・モーリアもヴィッキーもです。懐かしい。
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週刊サンケイ 1968年4月8日号より
背中でばってき! 挽回策に入れ墨女優

まだ、にっかつロマンポルが始まる前でも、日本映画には、お色気をまぶした映画は沢山あったと思いますが、未成年であった私は見る機会がなく、ほとんどは週刊誌的知識で読んでいました。ここにある荒井千恵子も知っていましたが、映画は見たことが無かったです。
三船・石原プロ作品「黒部の太陽」のヒットは、金をかけても”いいもの”をつうれば、客がくることを証明したが、現実の日本映画界は、ますます安あがりで安全なエロ・グロに傾斜している。
東映が文芸大作「石狩平野」の制作を延期したのも、東映の向こうをはってヤクザとエロに力を入れ始めた大映に、このところ水をあけられたためらしい。
松竹も右へならへで、”創業以来はじめての本格的いれずみ映画”というふれこみの「いれずみ無残」を、フリーの関川秀雄を招いてつくりはじめた。
荒井千恵子、松岡きつこ、川津祐介らに、名人二代目彫芳によって、みごとなほりものが描かれたが、なかでも松竹が期待を寄せているのは、背中一面の「天女の羽衣」で登場する荒井。入社五年ではじめて主役ばってきされた新人を”女賭博師シリーズ”で人気の出てきた江波杏子に似た毒婦型。松竹の方向転換のおかげて浮かび上がったわけだが、早くいえば背中でばってきというところか。
江波杏子・話の特集・篠山紀信・ヌードとか松岡きつこ・11PMとか断片的に思い出しますが、この荒井千恵子が活躍したというのはあまり思い出さないです。もちろんこのコラムに写真がありますが背中からでは、覚えがないようなあるような感じです。(荒井千恵子とこの週刊誌の記事ではなっていますが、荒井千津子の間違いではないのでしょうか。ネット検索では、荒井千恵子ではヒットしません。)
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サンデー毎日 1968年5月12日号より
篠山紀信へ20の質問

篠山紀信が一番活躍していたのは私の思い出では1970年代なわけですが、もうその頃には、押しも押されもされぬ一級ヌード写真家としての地位を確立していたと思います。先日手に入れたサンデー毎日に面白い記事が載っていたので紹介します。

”非常識なレンズ”で世間を驚かせた
枯れ木のようなファッションモデル松田和子をヌードにして、世間を驚かせた売れっこの写真家、篠山(しのやま)紀信氏。六年のサラリーマン生活にピリオドをうち、ちょうどフリー宣言したばかり。結婚のうわさもある。”非常識なレンズ”をふりかざす二十七歳の青年の胸のうちは・・・
・・・・・
<問3>あなたがヌードをとる意味は?
<答>それが人間であり美しいから。ところで面白いものです。ヌードではとれない場合がある。つまり、ぼくは、人間の美しさを追究しているわけです、ヌードを追究しているんじゃない。だからヌードにしてみて、これは服を着せたほうがいいと気づく場合があります、そのときは着てもらう。もちろん逆の場合もあります。
<問4>するとヌード作家といわれると反発を感じますか?
<答>ぼくの仕事の80%が広告関係、ヌードはたかだか20%です。それをヌードのほうばかり強調して言われる。反発して最近ドキュメントをやってます。フリーになったのを機会にドキュメントを多くしようと思います。
うーん、当時週刊誌にかじりついていた僕としては、やはりヌード写真家としてのイメージが強いです。まあ、どんどんモデルさんを脱がしては話題をさらうという、そんな感じの写真家さんでした。
<問11>あなたにとって、写真とは何か。
<答>生きているあかしですね。
<問18>あなたは”家庭”をもちたいですか
<答>ええ、ふつうの家庭をもちたい。家庭にしばられるとカメラマンとしての創造の力をそがれるということは考えない。小市民の典型であってもいいカメラマンでいられるのじゃないか。カメラマンにとって肝心なのは、そんな仕組みの問題でなく、精神、直感の力だと思う。
20の質問といっても、あたりさわりのない質問が、とにかく並べられているだけであってこれで、篠山紀信の生き様をすべてききだせているというようなものではありません。
本当に簡単に質問をしているだけですが、私が篠山紀信の記事でよんだものでは一番古いものです。
家庭のくだりは実に平凡ですが、我らがシンシアとの結婚の前に一度別の方との縁組みもあったということも、なにやら平凡ではなかったように思います。
現在の子息の活躍も、家庭としては、雰囲気が良いと思うのですがとにかく、当時「あーーーっ」とファンは思ったわけです。
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週刊朝日 1968年5月31日号より
ズートルビーの水虫の歌

「どんなにどんなにはなれていても、ぼくはきみを・・・・」高校のころ良く歌いましたというか、懐かしい響きです。それ以来全く聴いた事がないですが・・・。
この夏は足も耳も水虫に悩まされそうだ。というのは、ニッポン放送の深夜のリクエストで「水虫の歌」というのが爆発的人気を博しているからだ。
「どんなにどんなに
はなれていても
ぼくは・・・・」
と、実にロマンチックだが、これが一転して
「せつなくうずく水虫は
君と僕との愛のしるし」
とくる。歌う五人組は種子島出身のズートルビー。おや、どこかで聞いた名前だなと思ったら、ビートルズの逆。「帰ってきたヨッパライ」の「フォーククルセイダーズ」の別名だそうだ。ニッポン放送は、足の裏のカタチをしたリクエストカードまでつくっている。この水虫、七月一日にT社からレコード化もされる。
当時は、デンリクや葉書リクがどの放送局でも音楽放送の主流でしたが、そうですかニッポン放送から火がついたのです。いろいろフォークルは解散や再結成、放送中止などあったのですね。しかし、今思い出すのは、ヨッパライと水虫です。それよりも、解散後の別グループの「ひとはだれもただひとり・・・」の方が、耳に残っているのは何故。このページのトップへ移動
週刊サンケイ 1968年7月22日号よりnew
チャンネル0(ゼロ)
杉本エマ

ゼネラル石油のCMとポスターでファンがぐんとふえた。大阪でフリーのモデルをやっていたが昨年上京。ロミ山田音楽事務所に籍をおいてミュージカルタレントを目指している。
身長−170、B−93、W−60、H−93。18歳。
現在撮影中の日活映画「バリ島珍道中」で初めてセリフのある役をもらって奮闘中。ドイツ系アメリカ人の血をひくグラマーである。(撮影・石井敏雄)
この記事をみて、初めて杉本エマが大阪出身であることを知りました。60年代終わりから70年代にかけてこの方は非常に活躍されたモデルであったと思います。
かなり濃い外国人顔でしたので、日本語喋れるのかなとか思っていました。
写真はデビューまもなくで若いからか、思っていたイメージの杉本エマよりもずっとぽっちゃりしています。
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2013-11-12記
週刊サンケイ1968年7月22日号より
週刊朝日 1968年11月1日号より
ワイド特集 自動車王国ニッポン

モータリゼーションが確実にニッポンをスピードの世の中にしていきました。この68年は、まだまだ私の実感として車をもてるとは思えなかった時代ですが、ホンの数年でもてるようになっていったのです。
新車の季節である。コロナ対ブルーバードは”1600cc戦争”にエスカレートし、本田技研もHONDA1300を発表した。
その裏では米国のビッグスリーの上陸がささやかれ、業界再編成の話が進められている。わが国の免許証所持者は、四人に一人、自動車の所有者は十人に一人。生産台数も世界第二位となった。日本のモータリゼーション(自動車時代)は、ますますテンポを早めている。「自動車王国ニッポン」の現状と未来図を探ってみよう。
自動車業界の”台風の目”は二つあるといわれている。本田技研と東洋工業である。
・・・・
会場に運び込まれた三台のHONDA・1300が、いっせいにエンジンを始動させた。
HONDA・1300が注目をあびているのは、その独自の個性と価格である。すでにN360で三十一万五千円という安い価格をつけて業界をアッといわせているからである。
そこで、このHONDA・1300の価格だが、「来年の三月一日付けの新聞紙上で発表します」と軽く逃げてしまった。
本田社長は”ccで計算すれば、やや高く、馬力からいえばやや安い、というところですかな」
と、もったいぶるが、業界の見るところ40万円台というところらしい。
数ページに渡って記事は続くのですが、すべてを載せるわけにもいきません。
日産とトヨタの大戦争の中に割って入ったHONDAですが、この1300はほとんど私は覚えていません。すぐに(といっても数年ですが)シビックの大ヒットがあり、東洋工業も時を同じくしてファミリアでヒットしました。車フリークではなかった私ですが、新規の購入、買い換えの時はカタログをもらい、カー雑誌を買いあさりしていました。夢はやはり当時イタリアのスポーツカーでした。現実はホンダZだったのですが、とりあえずZのオーナーということで、フェアレディZとは、同一語のようにいったりしていました。
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週刊プレイボーイ 1968年12月10日号より
NHKが水前寺清子を起用した理由
視聴率のカギ握る ミーハー票?
<是が非でも成功させよ!>
上層部の至上命令のもとに、頭を抱えノイローゼにまでなったのが来年1月5日スタートのNHK「天と地と」のスタッフである。なにしろ、看板ドラマ「三姉妹」「龍馬がゆく」と2年連続して不評だったあとだけに、NHKのメンツにかけても視聴率をあげる必要がある。
現在(2012年)放映されている平清盛も、画像が粗雑とかいろいろなことをいわれて視聴率も伸び悩みですが、NHKの大河ドラマと言えばあたってあたりまえ、視聴率が低いものなら、それこそたたきまくられます。
そこで、スタッフがいちばん力を注いだのが配役の人選だった。
石坂浩二の上杉謙信、高橋孝治の武田信玄、そのほか滝沢修、宇野重吉、樫山文枝ら民芸の人気者をズラリと並べてみたが、まだ自信がもてないらしく、14日、都内のホテルで原作者・海音寺潮五郎氏や主要出演者を集めたパーティーで突如意外な出演者を発表した。その名は水前寺清子----。
水前寺は、ことしの「紅白歌合戦」の司会者に起用するほどNHKがその人気を信用している流行歌手だが「天と地と」は戦国の武将・謙信を描いたドラマ。いってみれば、水前寺の出る幕はないはずだ。
水前寺清子は、ボーイッシュでかわいい方だったので、今で言う「数字を持っている」歌手であったと思います。
原作=ドラマのような制作方針では、あまり面白くなく、原作は小説ですから、人物としての顔がなくても、ドラマ化されれば実際は演技者の顔がその原作に定着します。その点、原作にない役どころならば、小説を読んでも邪魔にはなりません。
しかし悲しいことにドラマを先に見てしまっていると、小説がドラマと違う。原作がおかしいという矛盾した気持ちになるときもあります。
特に、風景描写などは、小説による(作者の筆の力による)思い描ける想像の画像が、完全にドラマでの描写された画像に変わってしまいます。
原作者にとっては非常に残念であり、そういう心配もしなくてはなりません。
さすがの原作者も、意外かつ不快だったらしく、
「失敗しても私の責任ではないよ」との冷たい発言。
しかし、スタッフの1人にいわせるとこうである。
「視聴率をあげるためには、どうしても水前寺のようなスターが必要なのです」
つまり「赤穂浪士」に舟木一夫が出演したのと同じ意味というわけだ。
スタッフは水前寺に大いに期待し、わざわざ原作にない人物をつくっているが、出演回数はわずか6〜7回。他にも新珠三千代が3回、岩井友見が2回、北原真紀が8回といったぐあいに、人気者の顔ぶれだけを並べる作戦をとっている。
視聴率をあげるためには、制作側の知恵が必要なのか、それとも、ミーハー票を掻き集める以外に方法はないということなのか。
テレビというものについての、むずかしい問題である。(記事終了)
実のところこのテレビドラマが不振から抜け出せたのかどうかは、ネットで調べていただくとして、私にとって、大河ドラマはあまりにも長すぎます。13週での完結までが、なんとか見続けることができます。
または、1話完結で続いていくのが気楽に見ることができていいです。時代劇は特に最近そう思います。 2012-11-16記
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週刊プレイボーイ1968年12月10日号より
週刊プレイボーイ 1968年12月10日号より
アニマルズ
公演キャンセル事件の真相
考えさせられる呼び屋商法
9月に来日公演を予定しておりながらアメリカ公演との二重契約問題を引き起こして来日が中止となったり、すったもんだの末に来日(11日)すれば、記者会見の席上でリーダーのバードンが解散を声明したりで、もめにもめた、アニマルズが17日の朝、残りの公演をすっぽらかして、突然帰国してしまった。彼らの行動は各方面に様々な波紋を投げかけている。
アニマルズといえば、"there is a house in New Orleans...."と歌う「朝日のあたる家」と「悲しき願い」しかしらないのですが、アニマルズに限らず歌がヒットすれば確かにすぐ、日本での公演が決まって大々的に宣伝する洋楽タレントは多かったように思います。
私はそれらの多くを見に行ったことはありませんが、中学生の時に1度だけ「ハニーカムズ」の公演を見に行った記憶があります。
一行を呼んだニューJBCでは一応今回の不祥事を”メンバーの不仲が原因だ”と公式発表して責任はすべて彼らにあるんだという口振り。すっかり悪者にされたアニマルズだが、この事件の内部事情をしっている関係者や音楽評論家の間ではアニマルズを支持する声が圧倒的に多い。
前に述べたようにアニマルズは9月に一度、来日公演をキャンセルして非難されているが、記者会見の席上でこの問題にふれ、記者からあやまれと言われても、何のことだか理解出来ずキョトンとしていた。この来日キャンセル事件の真相は彼らの二重契約ではなくて日本側プロモーターが手続きを完了しないままにビザの申請をしたため許可がおりるのが遅れてしまったためだったとか。だから、直接の損害をこうむったのは、アメリカ公演を断ってまで来日のスケジュールを明けて待っていたアニマルズの方だったのだ。だから藪から棒にあやまれと言われても解せぬ顔をするのは当然かも知れない。
エリック・バードンとアニマルズはアメリカでは、人気、実力、ギャラ共にトップだが契約金の1千100万ぐらいの安いギャラで来日公演をOKしたというのも変な話でアメリカでならこの金額ではとてもとても・・・・というのが実情。なにぶんオルガンのズート・マネー、ギターのアンディ・ソマーズなど元有名グループの名プレーヤーとしてキャリアと実力を誇るメンバーなのだから。
そんなに実力派の集団だったのですね。’68年頃といえば、受験勉強と深夜放送にあけくれていたころでありました。アニマルズはその頃ヒットしていた記憶はありません。
突然17日には広島で公演があるはずだったが、彼等はその直前までは広島で公演するつもりでいて、すでに特別注文して作らせた自分たちの最高級の楽器を広島に送っており、それをそっくりそのまま残して帰国を急いだのもおかしな話。そう言えば内輪もめと言ってるのに、メンバー同士がマネジャーと一緒に同じ飛行機で帰るというのも納得出来ない。
ともあれファンを無視して1ヵ月にわたる日本公演を途中でキャンセルしたことは事実で、芸能人としてのモラルを疑われても一応仕方はあるまい。
今年は外タレの事故が相次ぎ2月のタムラ・モータウン・フェスティバルは来日前夜になって中止。
7月にはスコットとゲイリーの公演ではスコットが神経衰弱で来日不能、ゲイリーのみ公演というおそまつさ。
アニマルズは自分たちの”音”を大切にするので有名な連中、例えばTV出演中に時間の都合で曲がチョン切られたりしたりすると激しく抗議したりアドリブ連続で何を演奏しても10分以内で終わる曲がないほど・・・・。
結局、今回の事件は音楽家としてのアニマルズを理解せず、商品としてのみ動かそうとしたプロモーターのタレントに対する愛情のなさが直接の原因のようだ。(記事終了)
契約云々よりも、大人の事情があって公演ツアー途中のキャンセルになったのでしょうけれど、ファンを裏切る行為であるのは間違いないと思います。
話は、アニマルズから離れますが高校生であったころにはもう「週刊プレイボーイ」や「平凡パンチ」を買っていました。そしてぎらぎらした眼でグラビアを見ていた記憶がありますが、このようなコラムや囲み記事を読んではいませんでした。ゆえに、今見ていると非常に新鮮で面白く懐かしく感じられます。
さて私の所有している"The Billboard Book of TOP 40"によると、下記の曲があります。
THE ANIMALS
The House Of The Rising sun
Don't Let Me Be Misunderstand
We Gotta Get Out Of This Place
Don't Bring Me Down

ERIC BURDON & THE ANIMALS
See See Rider
San Franciscan Nights
Sky Pilot (Part One)
その他多数あり・・・・
2012-11-20記
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週刊プレイボーイ1968年12月10日号より
1966 1967 1968 1969 1970
(青い文字は、雑誌本文記事です)
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