1976年(昭和51年)の出来事について

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週刊プレイボーイ 1976年4月27日号より
球春に舞い散った汗と涙の”甲子園桜”たち
第48回選抜高校野球大会のヒーローをあげれば、優勝校・崇徳の黒田投手は文句なし。悲劇のヒーローは、むろん鉾田一高の戸田投手。そしてグループ・ヒーローは、ヒーローなしでベスト4に勝ち残った日田林工チーム。だが、もうひとり、選抜には出場しなかった東海大相模の原辰徳選手を忘れるわけにはいかない。
(1)不出場の悔しさを越えて”最後の夏”に賭ける 東海大相模・原三塁手
小田急線・相模原の寿司屋<六ちゃん>には、東海大相模ナインがよくすしをつまみに来る。講演会の役員でもある主人の紅林秋男さんはこう言う。
「選手たちは、ワイワイ騒ぎながら食べていたけど、選抜の話はこれっぽっちも出ませんでしたね。話題にしようにも何も知らないんじゃないんですか。テレビを見るくらいなら練習、練習ですからね。原クンなんか、選抜の優勝校すら知らないんじゃないかと思いますよ。」
今なら、こういうタニマチ的存在の飲食店は、結構貴重な存在であるのかもしれませんね。
去年の暮れの時点で、東海大相模は選抜出場をあきらめていた。同時に夏の大会に向けての練習が始まったのだ。
原クンは、冬場のサーキットトレーニング、基礎練習、そして実践練習と、すべて順調にこなし、すでに絶好調。チーム自体も今シーズンの練習試合で10戦10勝と、圧倒的な強みをみせているが、この10試合での原クンの成績は、ホームラン6本、打率は、正確な数字は出ていないが、原監督によると5割2〜3分という素晴らしいもの。ナインも、
「原は打ってあたりまえ。たまに凡退するとヘンな気がする」と、呆れ返っている。
3月末、いま流行の風疹にやられ、4月3日まで寝込んでしまったが、翌4日、対厚木高戦に病み上がりで出場して、いきなり2塁打2本を含む5打数4安打の大暴れ。そして、その日の午後、川崎球場での対銚子商戦では、先制の大ホームランをかっとばした。その飛距離たるや、田淵そこのけの120メートル!
原クンが一人で甲子園の選抜に張り合ってみせたのも、この川崎球場での対銚子商戦。この日、甲子園での準決勝2試合をほったらかして、川崎に原クンを見に来たプロのスカウトが、ロッテ、巨人、広島と、3人もいたのだ。
原監督とは原クンの父上なのでしょうか?私は全く高校野球には無関心で、春も夏も高校野球を見ることもないわけで、このころの各高校の内部事情に詳しくもなくエピソードも知らないので,wikiで調べなくてはなりません。
たしかに本戦をほうっておいて、地方の闘いにスカウトが来るというのはすごいことです。運悪くたまたま甲子園へこの高校が行けなかったということもあるのでしょう。
むろん観客動員でも甲子園に劣らない。試合におくれてきたおじさんが、「どうですか?」と先客に聞くと、
「4−3ですよ。いい調子ですねえ」と浮き浮きしている。得点経過ではない。原クンがいまのところ4打数3安打だと教えたのだ。
原クンを見に集まって来た女のコに至っては、なんと4千人!
だが、東海大相模は本当に夏の大会に出られるのだろうか。弱点とされている守備や投手力はどうか。
原監督はこう考える。
「守備の面ではまだまだ甘いところがあります。大きな試合ではこれが致命傷になりがちですからね。いま、練習を重ねて、守りの野球を固めているところです。
投手では、野中はいいけれども、岡部があと一歩。これが一本立ちできるようになれば大丈夫です。あとは気迫の充実あるのみです。とにかく、夏の甲子園一本にしぼってすべてを結集していってるんですよ」
原クンの口調はさらに熱っぽい。
「夏は絶対にやります。泣いても笑っても、甲子園は今度が最後ですからね。甲子園に出るだけじゃだめなんです。絶対勝たなくちゃ・・・・・」(記事終了)(2)〜(4)省略
スポーツ界では、こういう絶対に勝つ優勝すると宣言しても美談で取り上げられるわけですが、これがこと受験勉強となると絶対に模試1番になります。絶対○○大に入りますと努力を重ねていることをアピールし必勝宣言をすると、かなりうざい奴ととられるわけです・・・・。スポーツは得でありますね。2012-10-29記
週刊現代 1976年12月16日号より
やっと”大人”になった? 陽水センセイ

当時は、漫才のネタになるほどの井上陽水でした。そして、学祭でも、模擬店では、ユーミンや陽水や拓郎を流し続けたものです。
マスコミ嫌いで知られる、井上陽水が”急変”した、と音楽記者連中を驚かせたのが北九州市小倉でのコンサート。
関係者十数人を招待し、宿代足代を”負担”したうえ、夜の十時過ぎまでしないのホテルでパーティを催した、というから、確かにサービス満点。
当然記者団から質問が出た。
---今までマスコミ嫌いだったのにどうしたのか、
「魔がさしていたのです。ボク自身、普通の言葉でしゃべるより歌うほうが簡単なので、ついオックウだったのです」
「今まで格好悪いところは見せないようにしてきましたが、恥をかかなきゃいけない、と考えました。キッカケがあれば、テレビ出演の可能性もあります」
この”変身”ぶりに音楽記者連もアッケにとられたようだが、
・・・・
フォーライフレコードの取締役でもある陽水センセイやっと、大人になってきたということですかな。
デビュー(再デビューかな?)のころは本当に素顔がわからなくてあれほど大きな人とは知りませんでした。歌詞も歌も好きでしたからそのまま覆面歌手のままでもよかったのですが。
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(青い文字は、雑誌本文記事です)