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1978年(昭和53年)の出来事について

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週刊現代 1978年5月4日号より
’78サマーガール登場 健康美・服部まこ17歳
まだまだ、79年代末期は、ポスターガールが全盛の時代でした。そして、各週刊誌を賑わしていました。ここには、服部まこのカラーグラビアと少しの記事があります。
ある調査によれば、OL七百名を対象にあなたが理想とするプロポーションのタレントは?ときいたところ、歌手の浅野ゆう子に次いで夏目雅子が第2位だったそうだ。カネボウ化粧品のサマーキャンペーンでみせた夏目の全裸ポスターが見事あたったわけだ。
その夏目の跡目を継がせようと今夏カネボウが売り出す”サンシャインガール”は服部まこクン、十七歳、未成年であるが故に夏目ほど大胆なポーズはとれないけれど、大胆な水着越しに見えるプロポーションはすっかり成年。月替わりでポスターが三回も替わるというから、男性諸君、たまには化粧品店のショーウィンドーでもノゾいているカネボウ?
服部まこのプロフィール。昭和36年2月17日生まれ。職業モデル。身長165、B85−W56-H85。趣味、陸上競技、器械体操、水泳、フラメンコダンス。
昔は、それこそポスターというと実写であったのですが、最近は、なんとなく合成(コンピューター処理?)のものがあるような気がして、ポスターの水着ってなかなか信用なりません。この服部まこのグラビアはもちろん控えめの、ビキニ風といっておきましょう。
サンデー毎日 1978年10月1日号より
上智娘2人の生き方・南沙織/アグネス・チャン
珍しいことなのですが、一般週刊誌に南沙織の記事がありました。
南沙織の引退は、私にとってはショックなことですが、もう働いていた身としては、このころになると惰性でレコードを買っていたという頃です。デビューの頃ワクワクしていた気持ちもかなり私はさめていて、ああ引退するのかなと言う気です。
アグネス・チャンといえば、「ひなげしの花」の歌というくらいでさほど、思い入れもなく、ここで復帰とあるわけですが、まったく気にはしていませんでした。
対照的な”選手交代”の秋
「とにかくですね、しっかりしているのか、醒めてるというのかこのところ芸能界は若い娘にかきまわされっ放しで・・・」芸能プロダクション関係者の声が代表するように、近頃の歌謡界は、ヤング女性タレントの引退騒ぎが相次いでいる。もちろん引退があればカムバックもあり、引退という名の移籍工作も再三だったから、引退声明と同時に復帰説をめぐる怪情報が乱れとんだりで、疑心暗鬼の腹のさぐり合いが、業界をかけめぐるのだが、十月早々に対照的な二つのステージがある。(加東康一)」
「引退という名の移籍工作」って誰だったのだろうかと、思うのですが全くわかりません。
十月四日から一週間、東京・有楽町の日劇では"ハッピー・アゲイン”をうたい文句としたアグネス・チャンのワンマンショーがひらかれる一方で、十月七日夜は、東京調布の市民会館で南沙織の ”さよならコンサート”の幕が開く。
カナダのトロント大学に留学、法律を学んで弁護士になりたいと語っていたアグネス・チャンが、どういうわけか大学を卒えるのを待ちかねたように日本に戻って、八月十四日、大車輪の復帰キャンペーン。八月三十一日には日本武道館でファン大動員のコンサート。以後全国十都市をかけめぐる復帰お目見えの後、日劇公演と、あのカナダ留学はウソのような熱っぽさ。
ここで、調布の市民会館というのが会場としてどういう位置づけなのかわかりません。大阪に住んでいますので、いち衛星都市の市民会館でするという感じなのかなという気がしますが、実は有名タレントは、この調布では必ずコンサートを開くのですよというものなのかなあとも思ったりします・・・。またアグネス・チャンは全く私の範疇の外でしたので、この記事を読んでみて、ああそうだったのですかというのが感想です。

   サンデー毎日の記事写真より2008-09-04記
一方、南沙織はアグネス復帰のスケジュールが渡辺プロの手で詳細に練られていた七月三日、東京・芝のレストランでのバースデー・パーティーで、突如として九月いっぱいで歌手を引退する、と声明した。引退理由は学業に専念したいからの一点張りで、引退後は上智大学国際学部比較文化学科の学生として三年間勉強し、できれば大学院に残りたいというのである。
香港生まれの二十三歳のアグネスと、沖縄生まれで二十四歳の日比混血児・南沙織は、まるで選手交代のごとくこの秋をむかえるのだが、歌手になりたい、有名になるためだったらなんでもする・・・・といったいわゆるタレント予備軍三百万と言われる栄光の座を、一度は惜しげもなく捨てようと試みながらあっけなくカムバックしたアグネスと、月給二百万円プラスアルファーといわれる歌手の座を去って学窓にとじこもろうという南沙織。かのじょたちにとって芸能界とはなんであったのか、その経緯をさぐってみよう。
なんとなく皮肉っぽい週刊誌独自の視点からの、記事の仕方ですが、このころは今ほど一般誌に芸能ニュースが記事として載せられることは少なかったので、こういう見方もしかたのないところでしょう。
「沙織の引退はホントかねえ。もうひとつ裏がありゃしないか・・」
南沙織の引退宣言をきいたとき、芸能記者や業界関係者は一応にクビをひねった。それというのも、南沙織には二度にわたる引退宣言の前科?あり、二度とも引退には至らなかったからだし、現在所属している事務所への不満もあるからだろうと想像にかたくなかったからだ。
例によって、この業界の常套手段といってもいい、”引退という名の移籍”では・・といった思いが誰の胸にもあったのは事実だ。
南沙織の二度の引退宣言の前科?二度??と一度は知っているのですが二度目っていつだったのか。ちょっと存知あげませんが。71年から78年まで活躍したのですから、まあいろいろあってもいいし、南沙織は勉強が好きだったようですから、引退したいと(やめたいと)思ったこともなんどもあったのかも知れませんね。2008-09-06記
現に南沙織の最初の引退宣言は、所属事務所の移籍をめぐるごたごたから、信頼してきたマネージャーがスキャンダルをぶちまけ、新旧両プロダクションがスケジュールを取り合って、同じ時間に二つも三つも仕事が重なるといった不祥事がつづき、心身ともにボロボロとなって慶応病院に倒れこんだころだった。
TBSのワイドショーのゲストで出演した沙織が、いきなり生放送で、
「こんな汚い世界にいたくありません」
爆弾宣言のかたちでの引退声明は、ショッキングだったが、これを契機に沙織の所属問題は一件落着した前例がある。
二度目の引退声明は三年前だったが、その直後、元”Kとブルンネル”名で歌っていた鈴木豊明とのロマンス説が伝えられて、結婚するのでは・・・と取り沙汰されたが、契約上の問題もあって立ち消えとなっていた。
諸説ふんぷんの過去二回の引退声明のときも、沙織自身の希望は学業に専念したい・・・の一点に絞られていたが、今回の引退劇もその点ではまさに一致していた。・・・・
二回目というのはそうすると1975年のことだったわけですが、私は社会人となって、音楽はもう、シンシアに対してはレコードの発売のみを期待していたころで、彼女の行動自体にはほとんど興味がなくなっていたころです。芸能週刊誌を読んでいるわけでなく、スポーツ紙もそのころの三面記事といえばどういうのだったかももう覚えていません。
いずれにしろ何時も勉学に勤しみたいという姿勢が見え隠れしていた南沙織ということができるのでしょう。
・・・・・
南沙織が、郷ひろみや内藤やす子らの所属するバーニングプロから、T&Cに移籍したのは昨年。いわば子飼いの沙織をバーニングが手放した背景には、歌唱力は豊かだがイメージ的にも中途半端で売りにくいうえに、キャバレー出演などのいわゆる営業向きでもなく、バラエティーものやドラマ、映画などと小回りもきかぬ沙織をもてあまし気味だったという見方もあるが、ともかく沙織をトレードしたT&Cは、沙織に対して月給倍増の二百万円プラス・アルファーをもって遇した。
そういうことだったのですか。石を投げられ矢を射られて追い出されたようなのですね。かわいそうなシンシアです。たしかに、マジメすぎるような印象はデビューからずっとしていました。あまり彼女が出演しているテレビも見なかったですが、マジメの印象が強いです(実際のところは分からないです)。2008-09-21記
・・・・・
T&Cには、いま一世を風靡する勢いのビンク・レディーがいる。事務所がピンク一辺倒なのは止むを得ないが、歌謡界の先輩である沙織には、当然さまざまな不満が生じたろう。
一方、事務所側にしてみれば、口をひらけば学校にゆきたがる沙織に手を焼いた。月給の割には稼ぎにならない沙織をもてあました点では、パーニングと大差はない。タレントは消耗品という音楽業界の冷酷な現実 が、沙織の引退願望を再燃させたとしても不思議じゃなかった。
沙織の方は、そうした芸能界の現実を先刻承知で引退の時期を待っていたという形で、その点で事務所側とタレントの呼吸は合っていたというのが、三度目の正直の引退宣言となったのである。
「ビンク・レディーに追い出されたみたいにとられるのがいやだ」
と語っていた沙織は、これで宿願の学生生活一本に絞れると喜々とした表情なのだが、その上智大学国際帯3.部が、去年からシステムが変わって、従来、文部省が各種学校並みに学位を認めていなかったものが、国際学部のなかに比較文化学科が生まれ、四年制大学と同様に正式な学位が与えられることになったのも、沙織の向学心をあおる要素のひとつであったことはたしかだった。

このころは、人気流行歌手ではなくなっていたのかもしれません。しかし、当時の歌謡曲歌手としては、人口に膾炙しているかたであったわけで、私の思いがかなり醒めていたのは別にしても、引退は残念なことでした。まだまだ、いろいろな曲を歌えたのにファンからしてみればみすみすいなくなってしまうということは耐えられないことでした。
ピンクレディーと違って、南沙織は、歌のイメージを若者対象から大人の歌へとゆっくりと切り替えていけた歌手だと思いますので(ピンクレディーはファンが大人になっていくのを追い切れなかった)なおのこと引退はせずにせめてレコードだけでも出していて欲しかったです。
・・・<続く>・・・2009-02-11記
週刊プレイボーイ 1978年10月10日号より
日本人っていつまでたってもアカヌケないねえ・・・・・
引退する必要もない木之内みどり
「木之内みどり」といえば、可愛くて超清純派というイメージがあり、妹にしたいという思いが非常にあった歌手ですが、なんと肉欲爆発の「愛の逃避行」ということでその姿がいつのまにか芸能界から消えてしまいました。そのころの記事です。
聞くところによれば、木之内みどりは、サディスティックスのベース奏者、後藤次利と愛し合ってしまったらしい。
ところが、男性の方は女性フォーク・グループ、シモンズの玉井タエと結婚して、3才になる男の子がいた。つまりは”不倫の愛”だ、ってんで女性週刊誌が大よろこびして追っかけ回し、木之内みどりは彼と手に手をとって”愛の逃避行”。「清純派ナンバーワンが不倫の恋じゃアウトだ」と、事務所もサジを投げて、彼女不在のまま引退宣言。
−−というあらすじだが、この世の中、男と女がいれば、ややこしいことが起こるのは当たり前だし、そこあ人生の面白いところじゃないか。芸能人がいちいち恋愛スキャンダルのたんびに引退したら、そのうち誰もいなくなってしまうわな。
”清純派”というレッテル貼られていたって、彼女も21。”オトナ同士のラブ・アフェアなんだから、不義だの密通だのヒステリックに騒ぐ方がおかしい。木之内だって「昨日までは清純派だったけど、今日からは不純派でゆきます」ってくらい開き直りゃ、その度胸でまた新しくファンがつくかも?
・・・・・
・・・前歴がトルコ嬢だってクラブのホステスだっていいじゃないか。妻子ある男に惚れたって、芸にはかえってプラスになるだろう。日本の芸能界も、そろそろそこらへんのところに目ざめてもいいとおもうけどねえ・・・。
彼女のLPを買った経験のある私としては、こう書かれていても不純派はダメという気持ちがありました。それよりも後藤次利の書かれようが、”呼び捨て書き捨て”で微妙な位置ににこのころはあったのですね。
まあ、いろいろ彼女にあったのでしょうが、今では「個性派俳優さん」の嫁ですから、ほんとうに分からないものです。
そして、芸能界に限らず、また時代に限らず男女の仲は、いつでも、なんとなくちょっとどろどろとしていて時に噴火があるのも面白いです。
このページのトップへ移動2012-07-05記


週刊プレイボーイの記事より
週刊朝日 1978年10月13日号より
ついに売り上げ二千億円に迫るマンガ出版
読書といえば、文字のものと決まっていたものですが、このころからマンガがずいぶんとハバを効かせてきたようです。まだまだ、大衆の面前で大人がマンガを読むのは恥ずかしかった時代です。
読書の秋異聞
返品率46%と、この六月、月間史上最悪記録をマークした出版界。”読書の秋”ならぬ”読書の秋風”が身にしみる。でも、なかで気を吐くマンガ界。小売りの方も、あの手この手の苦心の策をめぐらす。
・・・・
「裏文化」の代表としてのマンガ
ジャンプ、チャンピオンを読んでるヤツを見ると、ぶっとばしたくなるよ。あんなのはマンガじゃねえや。きったねえ。(会社員32歳)
「鉄腕アトム」「忍者武芸帳」で育った世代も、すべてのマンガを受け入れられる、というわけにはゆかなくなってきたようだ。
・・・・
それにしても、「中央公論」の劇画特集のタイトルは「劇画を認知すべきか」。一体だれが認知するしないと悩んでいるのかと思えば、それはまさしく「活字文化」なのだと同編集部はおっしゃる。いわばそれは、活字文化を「表」の、マンガを「裏」の文化とみなす発想だろう。
・・・・
「裏」文化に押しまくられる、この今日的状況を、さて、あなたはどうみる?
・・・・
働きだしていたこのころですが、通勤でマンガを読むということはなかったようです。もちろん、喫茶店で読んだり、ビッグコミックを買ったりはしていたのですが・・・
この最初にあるマンガじゃないというところは、当時流行りだした余り、ストーリーもなく、ギャグの連続で描かれているマンガのことをいっているのだと思います。劇画やスポコンマンガは、面白く読んでいました。
週刊朝日 1978年11月10日号よりnew
真相の真相
清純派と”不倫の恋”のゆくえ
見送りに行った成田空港から、突如、妻子ある恋人とニューヨークに飛んだ木之内みどり(二一)。この”不倫の恋”の相手はベース奏者の後藤次年(二六)だが、清純派としてのイメージ・ダウンとスケジュールのキャンセルで、所属の浅井企画はカンカン。本人不在のまま、はやばやと木之内の「引退声明」を出した----とここまでは、本欄でも既報のとおり。
今なら、さしずめAKBのトップ5くらいの娘が、妻子ある音楽関係者とどろどろとした不倫の関係になったということで、男、女どちらの関係も暴かれ続けられることになりそうです。
結婚の二股をかけたということであれだけの騒ぎになるわけで、実力行使で仕事もキャンセルして、海外に出かけたとなればどれだけ世間(ワイドショーですが)を騒がせることになるでしょう。
帰国した木之内は空港で、
「清純派の仮面をかぶって嘘をつくタレントを続けるより、恋に生きたい。相手に妻子がいても、すきになったものはどうしようもない」とキッパリ。
これには、別居中の後藤夫人・好子さん(二六)が「離婚には絶対に応じない」と態度を硬化。”不倫の恋”の前途は、当然ながら厳しい。
帰国後の顛末を全く興味なくすごした私としては、あるとき某俳優さんと結婚という記事で「へー、へー、へー」と吃驚したものです。
それと、ここに記事として「後藤夫人・子」となっていますが、妙子さんの間違いであると思います。(下の写真参照・右)
しかし、一方的に「引退声明」を出しておきながら、木之内に未練たっぷりだったのが浅井企画。最後の月給「約四十万円)を渡しながら、「恋に生きるのはいいが、離婚成立まで生活はどうするのか」と、暗に当分の生活費の援助を申し出たとか。
さらに北海道の母親・千代さんや姉にも働きかけ、木之内に翻意の説得に当たらせもした。
「それほど蓄えのあるとは思えない彼女が、路頭に迷う心配があるからです」(浅井企画)という”親心”には「巧妙な引退撤回策」というカゲ口も。
が、彼女はそれらに一切応じずに、関係者の前から姿を消し、後藤との同棲に入ったようだ。すがれるのは恋する男であり、信じられるのは自分の気持ちだけだったのだろう。
小樽で古物商の九人兄姉の末っ子に生まれ、小学校時代に歌手志望を宣言した。それが生意気だと、折あるごとに上級生からいじめられた。だが彼女は負けずにやり返し、男の子との喧嘩も辞さなかったと、生い立ちの記は伝える。高校を中退し、故郷を追われるような思いで芸能界入りしたのだという。その彼女が恋に目ざめたときが、芸能界を去らねばならないときだったとは・・・・。
歌手としてのデビュー曲が四十九年の「めざめ」。最後のレコードになったのが「一匹狼」。後藤との”愛の賛歌”を歌える日は果たしていつか。(記事終了)
「後藤との”愛の賛歌”を歌える・・・」は最終的に来なかったのですが、そこはそこ非常に可愛い女性ですから、自身の身の処し方はどうにでもなったわけです。
それにしても、清純でちょっと暗そうだが、容姿端麗という女性がなぜ恋に落ちて自分の芸能人生を棒に振ってまでも男の元へ走ったのかという話題が、当時ちょっと「むかつくなぁ」と思ったのは私も若かったと思います。
このページのトップへ移動2012-11-26記

週刊朝日1978年11月10日号より  週刊朝日1978年11月10日号より
サンデー毎日 1978年12月24日号より
’78年レコードベスト100選 歌謡曲
南沙織の引退のとしですが、このベスト100選の中に南沙織の記事がありました。クラシック、ジャズ、ポップス、歌謡曲など各々20曲(アルバム)ぐらいをえらンでいます。歌謡曲のコーナーに、こういう記述がありました。
「キャンディーズ・ファイナル・カーニバル」(CBSソニー)である。すでに30万セット近い売り上げを記録しており、発売元のCBSソニーは、数年分の商売をしたといわれたほどだ。南沙織もまた引退した。学校(上智大学)に戻るというのが理由だったが、そのあとで、カメラマンの篠山紀信氏と一緒にヨーロッパへ行き、さては結婚?と疑われているところだ。その南沙織では「南沙織/I've been mellow」(CBSソニー)がいい。このタイトル曲は、尾崎亜美作詞、作曲でシングルになり、南沙織にとって久しぶりのヒットになった作品。コマーシャルにも使われた。
伊藤強・選とあるのですが、このかたがどういう方かは知りません。しかしかなり歌謡曲のツボを心得て書いています。このコーナーの最初には、
何といってもピンク・レディーの年だった。ラスベガスでの公演、アメリカでレコードを発売するためのロサンゼルス録音、そhして押し詰まってからは、NHKの紅白歌合戦出演辞退という騒ぎ。すくなくとも話題にはこと欠かなかった。話題を欠かさないで鮮度を保つのがひとつの戦略だとするならば、まずは見事なてんかいだったといっていい。そのピンク・レディーの今年の一枚ならば、やはりラスベガスのトロピカーナ・ホテルでの実況を収めた「ピンク・レディー/アメリカ!アメリカ!アメリカ!」だろう。
その他「しあわせ芝居」桜田淳子、「ヤマトより愛をこめて」沢田研二、「シンク・ピンク」アン・ルイス、「ルフラン」庄野真代、などが載っています。
南沙織の記事は一般週刊誌では本当にないですね。
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(青い文字は、雑誌本文記事です)
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昭和の時代を見るために参考になる図書を紹介します 昭和の雑誌を主に載せています。男性誌が多いです 平成の雑誌を主に載せています。男性誌が多いです 10年ごとの年代の年表です

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