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1990年(平成2年)の出来事について

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週刊文春 1990年5月3日号よりnew
11PM初代カバーガール
ジューン・アダムスはマルチ実業家
シャバダバ、シャバダバ・・・・のテーマに載って四半世紀を長らえた日本テレビの「11PM」が、三月三十日、ついに幕を閉じた。俗悪番組と糾弾されつつも二十五年間続いたこの番組の初代カバーガールが、当時十九歳のジューン・アダムス。黒の網タイツでお茶の間を驚倒させたものだが、その彼女、今や、超多忙のマルチ実業家。
「11PM」がスタートしたのは昭和四十年十一月
「番組をはじめるにあたって、”カバーガールを使おう”とオーディションを行いました。
百数十人もお応募があり、その中から七人を採用したんですが、ジューンはスタッフ全員一致のダントツで採用されたんです。当時、ジューンは、トップモデルとして活躍しているわけではありませんでしたが、上品で、プロポーションが抜群。戦後たかだか二十年の昭和四十年でしょう、外人名(ジューンの母方の祖父がポーランド系アメリカ人)が欲しかったことも、我々の目にとまった理由です」(「11PM」草創期のプロデューサー・後藤達彦氏)
こうして、ジューン・アダムスは、イレブンの”顔”としてデビューしたのである。
私が中学生の時に始まった11PMはもちろん開始当時見ることができるわけもなく、その内容もまったく知りませんでした。
ジューン・アダムスを知ったのはホステス役の時からだろうと思います。あまりハーフ顔をしてなかったのですが、名前が完全に洋名ということは、ハーフさん?とか思っていました。
高校時代から見だしたと思います。大橋巨泉の金曜日にあるボーリング教室は非常に役にたちました。あのころはまだ、ボーリングブームは来ていませんでしたが、みな簡単に200upが出来るように考えていました。
「しかし、カバーガール起用は、番組の一新をはかったことで、わずか五ヶ月で打ち切られました。そうしたら、”なぜ、ジューンを出さない”と抗議の電話・ハガキが局に殺到したんです」(前出・後藤氏)
そんなファンの熱い声に後押しされるかのように、ジューン・アダムスは四十三年、今度はホステス役で「11PM」に復帰する。もう黒の網タイツ姿ではないものの、相変わらずの人気で番組をひっぱっていった。
人気絶頂の彼女は、四十六年、時代のスター的存在ともいえるカメラマン・篠山紀信氏と電撃結婚。以降は芸能界から姿を消し、専業主婦におさまっていたかのようにみえた。
大学生だった私は、このときは、篠山紀信と結婚なんだ・・・。しかし、ジューン・アダムスのヌードは撮っていなかったのでは・・・と思いました。(南沙織も同じであると思います)
そして、南沙織のレコードジャケットに紀信撮影が常に印刷されるようになったのですが、女性専門カメラマンのように思われていましたから、特に不思議なこともなく、時はすぎて行きました。
ところが、五十一年離婚。翌年、青年実業家・塚本啓一さんと再婚し、彼女の人生は変わっていったのである。
そして、篠山紀信もまた有名女性歌手と結婚。これも、既定の路線のような気がしたものです。あとから、やっぱり写真を沢山撮っていたんだからか・・・。
ジューン・アダムスこと塚本ジューンさんは、今や、渋谷、六本木、代官山でカフェバー、ディスコ、焼肉店など八店を経営、さらには、映画制作(「座頭市」)まで手がける株式会社三倶(みつとも)の社長サンである(会長は夫君・啓一さん)。
近いうちに、ディスコをもう一店、六月にはイタリア料理店もオープンする予定という。
去年の秋には、あのダイアナ・ロスのスポンサーにもなったのは知る人ぞ知る。スゴ腕というべきか。
さて、その塚本ジューン社長がいう。
「私がこうして事業をやっているのは、今の主人といっしょになったのがきっかけです。最初不安はありましたが、”やるしかない”と覚悟を決めたんです。サービス業というのは、毎日毎日が闘いで、きびしいものです。いつもお客さんには、笑って帰ってもらうよう努力しています。
これまでうまくやってこられたのは、人に恵まれたからだと思っています。今後は、さらに店舗を展開かつ充実させ、主人がゴルフ場を経営していることから、ゆくゆくは沖縄のリゾート開発、ホテル、それに伴う飲食業と事業を拡大していきたいですね。映画制作も、いい話があれば進めていきたいと思っています。」
これほどの仕事をこなす塚本社長、さぞかし、ご多忙の日々とお見受けするが・・・。
「朝は九時半までには出社、あちこちに飛び回り、気がつくと深夜十二時を過ぎることもしばしばあります。休みはほとんどありません。そんなわけで、高校生の娘二人からはみはなされていますよ」
篠山さんとの間の子どもはジューン・アダムスが育てたのだと、知りました。
とはいっても、何とか時間を作って娘さんとゴルフをしたりと、家庭は円満のようだ。
今でもつきあいのある後藤さん(前出)は、
「カバーガール時代当時の彼女の性格からいえば、今実業家として頑張っているのは考えられない。元々しゃべるのがあまり得意ではありませんでしたし、”皆さんのお好きなように”、”皆さんがやるならいいですよ”というタイプだったんですからね。変わったんでしょうね」
と驚くことしきり。
しかし、塚本ジューン社長によれば、今日あるのは全て「11PM」のおかげとなるのだ。
「主人」との出会いもおおきいですが、もし私が、「11PM」に出ていなかったら、人生は全く違っていたでしょうね。
私はそもそも、カバーガールのオーディションを受けるつもりはなかったんです。それがたまたま当日、モデル事務所に遊びに行ったら、オーディションを受ける予定の子が風邪でダウンしていた。私はその子の代役で、気がつくと通っていたんです。これもなにかのご縁なんでしょうね。
その「11PM」が終わったのかと思うと、寂しい気持ちでいっぱいです。私にとって「11PM」は私の誇りであり、青春でした」
時代は変わり、黒の網タイツから、ハイレグの時代となった。(記事終了)

現在、記事を入力している間もwikiで調べたい気はするのですが、今どうなされているのかは全くわかりません。この記事が文春に載ったときも、実のところはジューン・アダムスを思い出すことも無かったですね。シンシア再デビューも迫っていましたが、それは後のことです。
記事は「ワイド特集・事件の女たちは今・・・・」という記事で、夫を亡くした熊谷美由紀、ご乱行の西村まゆ子、おしんの小林綾子といった記事に混じって掲載されているのですが、11PMが終わるからといって、ちょっとジューン・アダムスを引っ張り出すのが強引であるような気がします。まあ、週刊文春や新潮はそういうところが今でもありますからしかたないのか・・・。本来なら、朝丘雪路か安藤孝子ではないのでしょうかねぇ。
そして、この時から20年以上が経ちました。(こちらにもジューンの
写真があります)2012-10-15記
週刊文春1990年5月3日号より
1988 1989 1990 1991 1992
(青い文字は、雑誌本文記事です)
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